Journey in the Sky

久方小風夜さんに感想を送る

ここは世界で一番高い場所。

何かが上から降ってくるなんてこと、ありえないのに。
それなのにこの日は、空の上から堕ちてきた。

堕ちてきたのは……天使?



Journey in the Sky
―Story of the God and Cielo―



天使なんているわけがない。
落ちてきたのは、人間の少女だった。
真っ青なワンピース。白いボレロ。背中には小さなナップザック。
旅をしている途中で、飛行ポケモンの背から落ちたのかもしれない、と思ったが、それも少し違うようだ。
旅をしていたにしては、装備が軽すぎる。

これまで数多の人間が、この場所にやってきた。私はその全てを追い払った。
私は空に生きるもの。人間は地に生きるもの。元々住む世界が違うのだ。

……が、私はその日、空から落ちてきたその少女を追い払うことは出来なかった。
この地に堕ちてきたその少女に、私は少なからず興味を持った。
ここは世界で一番高い場所。
上から何かが落ちてくることは、これまで一度たりともなかった。


その少女は眠っていた。
少女を受け止めた私の手の上で、ずっと眠っていた。


少女がようやく目を覚ましたのは、満月が天高く昇った頃だった。
黒曜石のような真っ黒な瞳を開き、小さいけれどよく通る、透き通った声で言った。

「……あなたは……誰?」
『私は……レックウザだ』
「レックウザ、って言うの?」

少女の言葉に、私は驚いた。人間の少女には、私の言葉は通じないはずだ。
少女は私の姿をじっと見た。

「綺麗……。緑色の……竜神様ね……」

つぶやくようなその声に、私は更に動揺した。
「綺麗」。
そんな形容をされたのは初めてだった。
ここにやってくる人間たちは、ほとんどが私の「力」が、そして「珍しさ」が目的だったからだ。

少女は私にもたれかかり、なおも消えそうな声でつぶやくように言った。

「私ね、気がついたらここにいたの。何でここに来たのか、覚えてないんだ」
『驚いたよ。空が堕ちてきたのかと思った』
「空……うん、そうなのかもしれない」

少女は恥ずかしそうに微笑んだ。

「私の名前、チエロっていうの」

チエロ<Cielo>……『空』、か。

『……いい名前だな』
「ありがとう」

少女……チエロはまたはにかむように微笑んだ。
しかし、すぐに悲しそうな顔をして、小さくつぶやいた。

「私ね……名前の通り、空に溶けて消えたかったの……」
『?』

チエロは今にも泣きそうな顔をしていた。声が微かに震えていた。

「私ね、音楽が大好きなんだ……。歌ったり、楽器を弾いたりするのが一番の幸せだったの……。だけどね、突然、何も聞こえなくなっちゃったの……」
『え?』
「お医者さんに見てもらって、ようやくわかったの。私……頭に腫瘍があってね……それが耳の神経を圧迫してるんだって……。もう手術じゃ取れないくらい大きくなってて……。私、本当はいつ死んでもおかしくないんだって……」
『そんな……』
「私、死ぬなら、名前の通り空になりたかった……。空に溶けて、風と一緒に歌っていたかったの……」

西の空に沈みかけている満月の光が、チエロの涙で濡れた顔を、やわらかく照らしていた。
私はどうすることも出来ず、何と声をかければいいかもわからず、ただ黙っていた。

だけど、とチエロがまたしゃべり始めた。

「不思議ね、何も聞こえないはずなのに、あなたの声だけはちゃんと聞こえるの」
『私の?』
「うん。それで思い出したの。小さかった頃って、みんな、いろんな声が聞こえていた気がするの。空の声とか、風の声とか……。あなたの声、それに近い気がしたの」
『空の……声……』
「きっと、神様が、空の声を忘れかけていた私にくれた私にくれた最期の贈り物なんだ……。あなたと会えて本当によかった……」
『……』

チエロはそう言って、目頭をぬぐった。ぬぐってもぬぐっても、涙が溢れてきた。
私はチエロの顔を見て、胸が詰まりそうになった。
もらい泣きしそうになるのをこらえ、私はチエロに言った。

『私も君に会えてよかった……。だから、私からも贈り物をさせてくれ』

私はチエロを私の背に乗せた。

「え!?」
『ここよりもっともっと空に近い……いや、空の中に君を連れて行こう』

私は月の沈んだ方向の逆に向かって飛び立った。


月の沈んだ空は、黒から紺、紫、そして薄紫色のグラデーションを描いている。
空にはまだ微かに星が輝き、肌寒い空気は、物悲しさを更に引き立たせている。

『……見てごらん、チエロ』

私は遠い水平線を指し示した。
私の背中で、チエロが感嘆の息をつくのが聞こえた。

東の空には、朝日が昇りかけていた。
波打つ水面は、朝焼けの光を乱反射して、チラチラと赤や黄白色の光を放っている。
朝焼けの赤色が、薄紫の空をかき消していく。

「……綺麗……」

チエロの涙声が聞こえた。
でも、先ほどまでの涙とは違う。少なくとも私はそう感じた。

「空って……こんなに綺麗だったんだね……。ずっと見てたのに……全然気付かなかった……」

チエロが、ずっと背負っていたナップザックを下ろし、中の物を取り出した。
入っていたのは、真っ青な竪琴だった。
チエロはその竪琴をかき鳴らし、澄んだ声で歌を歌い始めた。


何度も音を外したけれど。涙で声にならないところもあったけれど。
竪琴に乗せて響くチエロの歌声は、全大気を振動させるような、透き通ったガラスのような美しさがあった。

私はもう何億年も生きた。これからも何億年も生きるだろう。
だが、私は、これほど美しい歌声をこれまで聴いたことはなかったし、そしてきっとこれからも、もう二度と聴くことはないだろう。


朝日が全て昇りきった頃。
チエロの歌声は徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

『……チエロ……?』

私の呼びかけにも、チエロは答えない。
背中に乗せた身体が、徐々に冷たくなっていった。

(……旅立った……のか……)

私の目から、堪えていた涙が溢れた。
悔しさを抑えきれず、私は大気中に響き渡るような叫び声を上げた。



……あれから、どれほどの時間が流れただろう。
この場所に、上から何かが堕ちてくることはなかった。

その時、私の耳に、聴き覚えのある歌声が聴こえた。
澄み切ったソプラノの、美しい歌声。
そしてそれが聴こえてくるのは……空の上。


『……チ……エロ……?』


私の前に、空が降りてきた。
青空のような真っ青な身体。綿雲のような純白の翼。


『チエロ……』
『レックウザ……。また……会えたね……』



空の柱の頂で、龍神と少女は再会した。
天空と共に生きる緑色の龍神と。
……美しい歌声を持つ、1羽のチルタリスとして。

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