僕想う君の道

シロンさんに感想を送る

――ねえ。しってる?
ボクらのウミのコト。


 水面が静かにゆれていた。
 忘れ去られたような場所で、時をそのまま止めるように。


 描かれた輪の中心から赤い小さなボールがぽっかり顔を出している。その横からは細い糸が伸びていて、それは細い棒についていた。
 先端に行くほど細い棒の一番太い部分、適当にテープの巻かれたそこをつかむ手の主は、白い野球帽を深くかぶって顔を隠していた。眠ったようにうずくまって、まるで静かに時を待っているようにも見えた。
 その横でぺったりと座りこんでいるワニノコは主人の代わりにじっと、自然の青い海には不自然な真っ赤な浮きを見ていた。
 時おり波にさらされてはゆれる浮きにどうしようかと身じろぎするが、次の瞬間でそれは元通り流れに逆らってぷかぷかと浮き沈みを繰り返していた。

 ひときわ強く風が吹いて、ようやく主人は顔を上げた。そうして何も言わずに水から糸を引き上げて竿の先端を、少し力を入れて押し入れた。ラジオのアンテナをたたむように細い部分はすとんと飲み込まれていく。やがてすっかり握り手の部分だけを残した竿は袋に入れられ大きなリュックに収められた。
 立ち去る準備を整えた主人をワニノコは小首を傾げて仰ぎ見る。
「………ココじゃなんも釣れねぇよ」
 苦笑して波を見つめる主人の瞳はここと同じ海の色だ。
 確かにここはきれいな場所だ。
 水も、空気も澄んだ、静かな入り江。
 ドーム型の穴がぽっかり開いた、橋のような岩を通って波が起こる。それがすべて洗い流してしまう。
ただ。
 それでは生きてはいけない。
 清められ、澄まれきったトコロは逆に、毒となる。
「汚れを知らないこの土地は、汚れを知ってる俺たちに合わないな」
 いつか誰かが言っていた。
 赤ん坊が一人で生きていけないのは弱いからだけでなく、きれい過ぎるからなのだと。
 何も恐れる必要のなかった世界から突然不快な世界に産み落とされて。それで最初に泣くのだと。
 生きるために穢れを知っていくのだと。
 そうしなければ。
 きれい過ぎることは、すなわち、生きる術を持たないコトだから。

 旅を続けてきたうちに分かったことがある。
 何かから逃げ出したくて始めた旅。結局その『何か』は分からないままだが、なんとなく、分かったことがある。
 この世界は、汚い。
 どこへ行っても悪事を働く者はいたし、どこでも常に死の瞬間が付きまとう。
 実際ポケモンたちに追い回されたり襲われたり、自然災害だの何だので死を予感したのは数え切れないほどたくさんあった。
 時にそれは他人に代わった。
 そのたびに何とかなってきたけれどこの先も『何とかなる』保証はない。
「……………」
 ふと、過去ともに旅したポケモン、『タイガ』を思い出した。
 やんちゃそうな外見とは裏腹に臆病で、いざバトルのときでも主人の後ろで震えていたタイガ。
 知らず口元に笑みが浮かぶ。
 情けないといえばあまりに情けないポケモンだった。
 いくらレベルが上がろうと、いくら進化しようともおどおどと主人よりでかくなった図体で隠れてばかりで頼りなかった。
 今は――主人の故郷で眠りにつき、帰りを待っている。

 最初はいらないと思った。
 別れを知るくらいなら一人でいいと。
 最後の言葉を知りたくはないと。
 失うものがあるならば、最初から得なければいい、と。
 それくらい、この世界にいるのは辛い。
 それくらい、この世界は、惨い。

「くあ」
 足元から聞こえた、気の抜けるような声。視線を落としてみると、いつまで経っても動かない主人を見かねて、早く行こうと急かすワニノコがいる。
 ふ、と。笑みが漏れた。

「悪かったよ。………行こうか、『タイガ』」

 名前を呼んでやると嬉しそうに手足をバタつかせた。
 ほんの気まぐれで立ち寄った故郷での旅の終わりと、旅の始まり。
 最期に何か言おうとした『タイガ』。
 その月命日に現れた『タイガ』。
「まだまだ終われねぇよな」
 故郷の海で眠る『タイガ』に聞かせたいことが、言いたいことがたくさんある。
 けれどまだ、この新しい相方ははじめて見る、優しいフリをした世界を見たりないようだ。
 もう少しだけ、それに付き合ってみるのも悪くはない。
 主人をおいてさっさとかけていくワニノコを追おうと、やれやれといった面持ちで足を前に出しかけた。

――ねえ。しってた?

 ふと誰かに呼ばれたような気がして踏み出しかけた足が止まった。
 だから。
 振り向いた頬を一段と強い風が撫ぜた。
野球帽がふわりと吹き飛んで、無造作に放置された長い髪が零れるように煽られる。
 岩が、鳴いていた。
 高く、歌うかのように。
 自然が生んだ、岩場を通る風の歌。
 あのドームのような丸い穴は、透き通るような声を紡ぐ歌姫が唯一出入りを許されたステージなのだ。
 波が足元まで寄せてきては、きらきら光りながら返っていった。
 風が収まって歌はとまった。
 歌姫はステージを降りてしまった。
 それでも彼は、入り江を臨んだ。
とても、愛おしげに。

 ズボンの裾をぐいぐい引っ張ってタイガが白い帽子から牙だけ覗かせていた。それを何度か繰り返してようやく主人が、「そーいや、いつの間に帽子飛ばされたかな」、気づいたのは大分経ってからだった。
 後ろ前にのせられた帽子がちょうど目元を隠していて、そこから下で怒ったように牙を鳴らしていた。
 間抜けなその姿に思わず、「………ぷ」、噴出した。
「あ、はははは! なんだよそのカッコ!」
 盛大に笑い飛ばして、カチカチカチカチ、牙の音が速度を増した。
「悪ぃ、悪ぃ。取ってきてくれたんだよな? さんきゅ」
 野球帽を定位置に戻して首の後ろをかいてやると幾分機嫌が直ったようで、気持ちよさそうに目を細めてから、先ほどの主人と同じように入り江を臨んだ。
「……………ああ。綺麗、だな」
 主人は小さく、呟いた。

そして入り江は静かになった。


 水面が静かにゆれていた。
 忘れ去られたような場所で、時をそのまま止めるように。


――しってた?
  キミでよかった、てコト。

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