空飛ぶクジラの夢。

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 目の前には、大きな満月が浮かんでいた。
その周りには、月明かりに照らされた雲がいい具合に浮かんでいる。
そして、そんな世界で僕は空飛ぶクジラに乗っていた――

 
 僕は気が付くと、空飛ぶクジラの上にいた。
いつ乗ったのか、どうやって乗ったのか、そして今までどこを飛んでいたのかは分からない。
とにかく僕は空飛ぶクジラに乗っていたんだ。
勿論、これが夢だという事は分かっていたけれど、月夜色に染まったこの空の中では、
そんな事はどうでも良いことのように思えた。
 僕はこの空の全てを見たくて、周りを見回してみる。
まずは前。さっきと同じように、雲を纏ったまんまるのやさしい月が浮かんでいる。
右。さっきと同じように、雲を纏ったまんまるのやさしい月が浮かんでいる。
左。さっきと同じように、雲を纏ったまんまるのやさしい月が浮かんでいる。
後ろ。さっきと同じように……。
どっちを向いても、月が見えた。
けれど、とてもキレイな月だったので、どこにあっても不思議には思わなかった。
 そして、上を見上げてみる。
やはり、そこには雲を纏ったまんまるのやさしい月が浮かんでいたけれど、さっきとは違い、
ゆったりと包み込むように僕達を見下ろしてくれていた。
その月を見て、僕は決して今まで何か不安な事があった訳では無いのだけれど、
なんだかとてもほっとした気分になった。
 最後に足下を見下ろしてみると、僕の黒くて月の光のなかで滑らかに光る毛並みの下に、
同じように滑らかに光るクジラの青い肌があった。
「どうだい、僕の背中は?」
いきなり、クジラが話しかけてきた。その声はとてもよく耳になじむ声だったけれど、
僕はひどく驚いた。クジラが言葉を話すことは分かっていたのだけれど、まさかこの夢の中で
誰かに話しかけられるなんて思ってもみなかったからだ。
「うん、とても気持ちいい背中だね」
「だろう? 毎晩こうやって月明かりを浴びているからね。でも、君には負けるかも知れないな」
「どうして?」
「だって君はとても綺麗に光っているじゃないか。その赤い目も、月にとてもよく映えているよ」
僕はどうやってクジラが僕の姿を見ているのか分からなかったけれど、とりあえずお礼を言った。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
 そこで、僕達の会話は途切れてしまった。
僕はクジラに話すことなんて無かったし、クジラにも僕に話すことなんて無かったのだろう。
こんなにキレイな月夜の中にいるのだから、きっと何も話さなくても良かったんだ。 


「やあ、初めまして」
しばらく空を泳いだ後、クジラが話しかけてきた。
「初めまして」
僕達はさっき話をしたような気がするのだけれども、クジラがそう言うのだから、
きっと僕達は初対面なのだと思った。
「調子はどうだい?」
「きっとバッチリさ。だって、こんなにキレイな夢を見ているんだもの」
「そうかい、それは良かった。ところで、キミはどうして僕の背中にヤシの木が生えないのか知ってるかい?」
クジラは満足そうに言った後、僕にこう尋ねてきた。
 僕は尋ねられて、初めてクジラの背中をじっくりと眺めてみた。
すると、僕のすぐ後ろに1本ヤシの木が生えていた。それは大きなヤシの木で、実もいくつかなっていた。
けれど、僕はさっき見たヤシの木を無かったことにして話を続けた。
「それは多分、君が空を泳いでいるからだよ。空にはヤシの木なんて無いだろう?」
「いいや、違うね。なぜなら僕は空を泳いでいるからさ」
「違わないじゃないか」
「もし僕が海を泳いでいたら、違ったかもしれないね」
「……」
 夢の中では、時々理不尽な事が起こるものだ。


 先程の質問なんてまるで無かったかのように、クジラは空を泳ぎ続けた。
現実の世界と同じように、月は近づくことも離れることもしないで、ゆったりと僕達についてくる。
すると、またクジラが話しかけてきた。
「ちょっと君、そこ、退いてくれないかな?」
「どうして?」
「潮を吹きたいんだ」
そう言われて足下を見てみると、僕のすぐ前に2つの黒い穴がぽっかりと開いていた。
その穴はクジラの呼吸に合わせてゆっくりと閉じたり広がったりしていた。
僕がその穴を覗き込もうとすると、クジラは少し慌てて言った。
「早く退いておくれ。あんまり我慢しているとくしゃみが出そうだ。」
「ごめんよ」
僕はクジラに謝ると、さっき無かったことにしたヤシの木をよけて、5歩ほど後ろに下がった。
「ありがとう。それじゃあ、いくよ」
クジラはそう言うと、大きな体をしなやかにくねらせて、空の上へと浮かんでいった。
 しっとりとして柔らかな雲を突き抜けた時、空気が急にひやりとしてきた。
僕はそろそろ行かなきゃいけないんだと思った。
「よおく見ておいてね」
クジラに言われて穴を見つめていると、唐突にキラキラと光るものが頭上へと吹き出した。
驚いた僕はクジラの背中で転がってしまったけれども、寝転んだまま見上げた空は、
月が、雲が、キラキラが溢れていて、とてもキレイだった。
「どうだい、綺麗だろう?」
僕に尋ねたクジラの声は、なんだか終わりの匂いがした。
「うん、とってもキレイだね」
僕は涙が零れそうになるのを必死でこらえながら答えた。
泣くのが嫌だったのではなく、クジラの背中を濡らしてしまうのがなんだか悪いような気がしたからだ。
 僕は全身で、この空を、月を、雲を、キラキラを、そしてクジラの肌の滑らかさを記憶に刻み込んでおきたかった。
けれど、目を凝らせば凝らすほど辺りはどんどんあやふやになってゆく。
 僕はとうとうクジラの背中に涙を零してしまった。
涙のしずくは滑らなクジラの背中をすべり、空へと消えていった。
「泣いているのかい?」
「……」
「大丈夫、泣いてもいいんだ。君はまた歩いて行けるさ、自分の足で。
今はまだ不安かもしれないけれど、きっと、いつか踏み出せる。
何かあったら、いつでも僕の背中においで。また一緒に月を見に行こう。だけど、今はさよならだ」
クジラは淋しそうに言うと、僕の背中から離れていった。
その時には、もう僕の涙も止まっていて、クジラと別れる事が淋しかったけれど、嫌じゃなかった。


 僕は目を閉じて、ゆっくりと空に浮かぶ月へ、夢の出口へと浮かんでいった。
目が覚めれば、何か変わっているかもしれないし、何も変わっていないのかもしれない。
けれど、今はただこの安らかな空気の中を漂っていたい……


End...

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