桜と狼

無々さんに感想を送る

 さわさわと柔らかな風が吹いた。
 それに混じって運ばれてきた甘い香り。血と肉にまみれた自分だから、嗅いだことのない、優しい匂い。
 ポチエナは目を細めた。その視線の先にあるのは桜だ。そしてその桜の幹にちょんと腰を下ろしているのは、キレイハナ。ただし、頭についた2つの花は桜、スカートのように靡く葉も桜の葉だ。
「そなたは?」
 キレイハナは尋ねた。
「…グロウ。」
 ポチエナは恐る恐る答えた。なんと綺麗な声だろう。本当に、その桜の優しさを音にしたような、そんな声。
「私に何か用か?」
「……や…。綺麗な木だなぁって…。」
「そう言ってくれるか。」
 キレイハナはふんわりと笑いながら木から舞い降りる。地に着地すると同時に、ふわりと花弁が何枚か零れた。
「それはありがたい。今年の冬は厳しくての、枯れてしまうかと思ったのだが…そうか。綺麗に咲いておるか。」
 鮮やかな真紅の瞳が細くなる。幸せそうに笑っている。彼女の頬がその花と同じ色に染まった。
 本当に本当に嬉しそうに笑うものだから、グロウは眩しくなって視線を逸らした。
「我が名はブルーム。日本語に直すと、咲く、だ。」
 生温かい風がやんわりと2人の頬を撫でる。
「この木は旧友であるチェリムから授かったもの。最も、そやつはもうこの世にはおらぬ。故に、私がこの木に宿っている。」
 グロウは瞬いて上を見上げた。立派な花がどうだと言わんばかりに見事に咲き誇っている。
 ブルームが続けた。
「私は初心者なのでな、チェリムのように上手いこと咲かせられるか、不安を抱いておったのだが…、そなたが綺麗と言うのならばよしとしよう。」
「……そんな……、俺はそういうのに疎いから、よくわからないのに、それを目安にしたら駄目じゃないのか?」
 首をゆっくりと振ってブルームは真っ直ぐに見つめ返す。まぁるい紅の瞳が優しく揺れた。
「いや、良いのだ、それで。そなたのような純粋な心がそう言うのならばそれは本当に綺麗なのだ。 ありがとう。」
 グロウの瞳が大きく揺れた。体温が急上昇する。顔が熱い。
 綺麗なのは、桜もだけど……桜だけじゃなくて……
 想いは口にすると安っぽく聞こえるからあえて口にしない。だからグロウは、早鐘を打つ心臓を宥めながら、口を開いた。
「早くっ…逃げてくれ!!」
「? 何を言うか。私はこの木に宿る精霊だ。この木と繋がっている故、動くことなど精々この木の根の端までだ。」
 きょとんとしてブルームは答えた。グロウの瞳がいささか剣呑さを帯びていて、吠える口からは鋭い牙が覗いている。真剣に言っているのは一目瞭然だ。
「どういうことだ?説明してくれねば私は理解できぬ。」
「っ……、この木が危ないんだ!!」
「何?」
 ブルームは眉間にしわを寄せた。
「頭は、桜が嫌いなんだ!どういうわけかは知らないけど…。だから!縄張りであるこの地に生えている桜を痛めつけて廻っている!!」
 唖然と目を見開いてブルームは言葉を失った。
 桜は弱い木だ。少しでも傷を付けたならば、そこから木が腐っていき、終いには死んでしまう。
「だからお前だけでも早く逃げろ!!俺たちポチエナやグラエナは生きものを喰らう!!お前は喰われたら駄目だ!!」

 逃げてくれ、頼むから。
 その優しい笑顔を、声を、瞳を、香りを、悲しいものに、苦しいものに、血の色に、鉄の匂いに、変えないで欲しい。
 生きていて、また新たな花を、立派な花を咲かせて欲しい。
 お前は血の匂いを嗅ぎ、肉をむさぼって生きてきたこの身に温かさをくれた。
 だから、その温かさを汚さないで―――。

「…無理だ。」
「!!」
 グロウの瞳が凍り付いた。その顔は強張っている。
 ブルームは目を伏せて、胸に手を当てる。
「私はこの木と繋がっている。故に、例え私が逃げれたとしても、この木が傷つけば私も傷つく。この木が腐に浸食されれば私も朽ちてゆく。この木が枯れれば私は死ぬ。」
 それがこの木と私の定めならば、私達はそれを受け入れよう。
 ブルームは木の幹に頬をすり寄せてそう呟いた。
 嫌だ。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ―――。
 朽ちたら駄目だ、死ぬな。
「俺が御前達を守るから!!死ぬな!!」
「無茶苦茶言うなぁ、そなたも。相手はそなたの頭なのだろう?故に、そなたよりも強いのは一目瞭然。それに重ねて頭の従者共…つまりそなたの仲間をも敵に回すというのか。」
 軽く息を吐きながら、落ちついた様子でブルームは言った。
「もう良い。それならば心の用意は出来るし、何よりそなたが花を褒めてくれた。それだけで私は満足だ。」
「それじゃあ駄目だ!!」
 ブルームは肩をすくめた。
「…なぜそなたが私以上に一生懸命になるのかがわからぬ。そなたはなぜ見ず知らずである私達を守ってくれるのだ?」
 それに対して、グロウは何も答えられなかった。だからブルームは微笑んで、舞い降りたひとつの花をグロウに握らせた。
 グロウが真っ直ぐにブルームを、また、ブルームも真っ直ぐにグロウを見つめる。
「良いか、それはそなたにやる。だから、この木と私のことは忘れろ。 …その気持ちが嬉しかった。」
 グロウが俯いて何かを思案している。
 やがて、彼は走り出した。仲間の元へと。
 見届けてから、ブルームは天を仰いだ。視界に淡紅色の花が映る。青い空と対照的なその色が綺麗だ。
 ふっと溜息を吐いて、ブルームは落ちてきた花弁を両手で受け止めた。
「グロウ…。そなたが綺麗と言ってくれて、私は、本当に本当に嬉しかったのだ。…例えばこれが夢だとしても、私は構わない。幸せだ。」
 そう呟いて、息でその花弁を飛ばすと、それは空高く舞い上がった。

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