マチビト。 前編
無々さんに感想を送る
幾度と、貴方と共に過ごす夢を見ました。
叶わぬことと、わかっていても、……それでも―――。
マ チ ビ ト 。
その体躯は狐のよう。金色の毛並みが神々しく、ふさふさとした尾は九つ。紅の瞳は気高く咲き誇る薔薇の色。
人はこのポケモンの名をキュウコンと名付けた。そして彼女自身が自らに付けた名は紅歌。くれないの、うた―――コウカ。
軽く成人男性ほどの背丈を持つ彼女は、彼女よりも半分ほど小さな岩に体をゆだねていた。見れば、体には無数の傷跡があり、血が滲んでいる。
“ずっと、ずっと、待っています。”
交わした約束があった。紅歌は、待ってますと、言った。彼は、必ず帰ってくると、言った。…………、言った…でしょう?
ならばなぜ貴方は帰ってこないのでしょう。
主である人間に頼まれて遙か彼方、東の都へと旅立つとき、貴方はふさふさとした尾を振って微笑みました。すぐ戻ってくるから、待っていてと言った。…………っ……言っ……た…でしょう……。
キュウコンは空を仰いだ。青々と澄んだ空が一面に広がる。ここはこんなにも荒れ果てた焼け野原だというのに、あんなに綺麗だなんて信じられない。
ふわりと、音も立てずにそこに何かが降り立った。
「またこんなに怪我をして、お前は何をやってるんだ?」
獣の体躯。額を王冠のような金色のものが覆い、四肢には黒い輪を巻き付けて、背からは無数のガラスのようなものが突き出ている。雲のような柔らかく白い毛を靡かせながらエンテイは片目を眇めた。
「いつまで待つ気だ?とうに数百年は経ったぞ。」
「死ぬまでに決まってるでしょう。私は、約束をしたんだから。」
「…あいつが帰ってくるなど、まるで夢物語。万に一つでも有りはしない。」
ぐ、と紅歌が押し黙った。しかしエンテイは続ける。
「お前や私は長命だからいい。しかしあいつは違う。」
「わか…てます…。それでも、約束、したのだから…、破ったら駄目です…。 …貴方だって、約束を守っているじゃないですか。」
ぴくり、とエンテイのその大きな体が僅かに揺れる。
――――俺が留守の間、紅歌を頼む。あんたにしか頼めない、から。 俺が帰ってくるまで、紅歌が人間に捕まらないように、守っていてくれ。
そう言ったオレンジ色の体が脳裏を過ぎる。エンテイは目を細めた。
それは大変変わった奴だった。第一印象がそれで、第二印象がそれ、第三印象もそれ。…要するに、変わった奴だった。
伝説のポケモンである自分に向かって、「変なもんデコに付けてんなぁ…。それ、前とか見にくくないわけ?」と第一声。第二声が「あんた何者?ここ、火山爆発とかあって危ないからとっとと帰った方がいいよ。」第三声が「名前は?…えんてい?…覚えにくい名前だな…。 うーん、じゃあ今日からお前、鈴朱ね。すずがあかいって書いてりんしゅ。格好いいっしょ。」
ほんっとにわけがわからん変な奴だった。…だが、その名前は彼にしか呼ばせない。あれにしか呼ばせないなんて、宝の持ち腐れなような気もするが、それでもいい。唯一の、友人だけが呼ぶ名前ならそれはそれで価値があるような気がするからだ。
鈴朱は目の前に横たわるキュウコンを見た。
――――鈴朱ー、見てー。俺の彼女ー。美人でしょ。
のろけかよ、と半ば呆れて嘆息したが、確かにそこにいたロコンは小さいながらも綺麗だった。自分よりずっと背の高い鈴朱を見上げて、小さく御辞儀をした姿を今でも鮮明に覚えている。
「…全てが」
紅歌が呟くように言ったので、鈴朱は思考を現実に引き戻して視線を彼女に向けた。
「夢だったら、良かったのに。」
紅歌はどこか遠くを見ていた。
「夢だったら、諦めがついたのに。」
時が止まったようだった。
「夢だったら、嘘だと思えたのに。」
空に浮かぶ雲だけがゆっくりゆっくりと流れていく。
「夢だったら、こんなに馬鹿な自分に出会わなくてすんだのに……!!」
炎ポケモンであるにもかかわらず、目からは止めどなく雫が零れる。
「なぜ…!!帰ってこないのですかっ…!!」
ほたほたと透明で綺麗な水は紅歌の目から頬へと滑り落ち、血の滲んだ血へと落ち、溶けていく。
…ああ、ほら、泣いてるじゃないか。
御辞儀をしたあと、私が高い位置から見下ろしたら、その子はわぁわぁと泣き出して、お前は私をすごい勢いで怒った。
――――バカ!!お前、顔怖いんだからそんな上から見下したようにしたら駄目だろ!!かがめ!!!
誰がそんなことを伝説のポケモンに言うものか。恐らくお前ただひとりだけだ、この変わり者。
――――ほら、泣くな。こいつ良い奴だから。顔は怖いけど、心は優しい奴で、俺の親友。…怖くないから…、泣くな…。
私がかがんで、謝ると、その子は涙を堪えながら、恐がったりしてごめんなさい、と言っていた。優しいのは、お前の彼女もだな…。
あの時、お前は俺を怒っただろう。この子を、泣かせたから。今、私はお前を怒りたい。なぜ、この優しい子が泣いているのだ。泣かせたら、駄目だろう。私じゃ駄目なんだ。この子を泣きやませられない。…お前でなくては…駄目なんだよ…。
…だから…。
「――――――早く…帰ってこい……。」
泣いているぞ。お前の大切な奴が。泣かせたら駄目だろう。あの時のようにあやしてくれ。そしたら、この子はまた涙を堪えながら―――。
絶えず流れ落ちる雫。純粋で清らかな聖水。何よりも帰りを待っている者がいる。ずっとずっと、待っている者がいる。
…なあ、“トウコ”よ。あれだけ私を怒っておいて、お前が泣かせてどうする。可哀相だと思わないか?何でもいい、一言でいい。この子に語りかけてやってはくれないか。
そのとき、不意に太陽とは違う柔らかな光が地上を覆った。
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