マチビト。 中編

無々さんに感想を送る

 ―――紅歌、俺、人間と一緒に東の都まで行くことになった。
 もう数百年も前になる。今思い出せばあの台詞が私をこんな運命に導いた。
 トウコ―――橙虎は既に人間のポケモンであって、野生である紅歌と居られる時間はその時でさえ僅かなものだった。それでも、どれだけ疲れていても眠くても空腹でも、一日に一度は必ず紅歌の元へ訪れてくれた。
 三日ほど、彼が来ないときがあった。心配で、心配で。病に伏せったのではないかと、大けがをして動けないのではないかと、不安になって。四日目になって橙虎が紅歌の元へやって来たとき、酷く悲しそうな顔をして項垂れていた。何かあったのか、心配になって、怖くなって。どうしたの、とは聞けずに、ただひたすらに目線を合わせようとした。
 …なんで、でしょうね。
 四日も前に人間から聞かされたこと。東の都、大都市まで、使いに行くと。足の速いお前じゃなくちゃ駄目なんだと言われて、人間と共に。
 わかってる。貴方は昔から頼まれたら断れないのでしょう。わかってるのよ、でも。
 だったらなぜ、私と共にいてくれなかったのでしょう。三日も、無駄にして、駄目じゃないですか…。私のような千年生きる者にとっても、大切な時間だったのですよ。
 それだけが、心残りで。
 ―――俺が帰ってくるまで、待ってて。絶対、すぐに帰って来るから。忘れないで。
 忘れるものですか。貴方のことしか考えられなくなったのはその日からなのですよ。視界に何が映っても考えられない。一日会えないだけで辛い…。…私は弱いですか?
 泣くな、と一言言ってくだされば泣きません。笑って、と一言言ってくだされば笑います。一緒にいよう、と一言言ってくだされば―――。

 光は紅歌と鈴朱を包み込んだ。眩しくてふたりは目を細めた。
 やがて光が小さくなったとき、そこにひとつの影が現れる。
 若草色の体で目の回りは漆色。瞳は透き通るような空の色で、背には白みを帯びた透明な羽根。
 彼らが目にしたこともないような変わった風体をしているそのポケモンは目を伏せて頭を下げた。
「時渡りポケモンのセレビィと申す。橙虎からの使いで参った次第だ。」
 見たこと無いポケモンが現れたとか、そんなことはどうでも良くて、ただ橙虎という名前に反応してふたりは顔色を変えた。紅歌が紅の瞳を見開く。
「橙虎は生きているのですか!?」
 数百年も前には自分と同い年だったはずだ。しかし今は。
 セレビィはうっすらと開いた目を更に細めた。
「橙虎はこの世には存在しておらぬ。とうの昔に息絶えた。」
「なっ…」
 わかっていたが、それでも。…僅かな期待に応えてはくれないのか。
 再び紅歌が涙した。嗚咽を漏らしながらぽたぽたと零れる涙は哀しみの色。既に乾いた血をほんの少しすくい取って地に堕ちてゆく。
 その姿を見て、セレビィは片目を眇めた。
「待て。ひとの話は最後まで聞かんか。 我は数百年ほど前の橙虎の生きている時からやって参った。」
「…何?そんなことが…」
「初めに言ったはずだ。我は時渡りが出来る。」
 良いながら、セレビィは彼にとっては呼吸ひとつほどしか経っていないと思えるほどほんの少し前のことを思い出していた。尤も、人間や普通のポケモン達からしたら、それは大凡想像も出来ないほど昔のことなのだが。

 ふわりふわりと森の中を散歩していた。木々は生い茂り、鳥は甲高い声で歌う。花は咲き乱れ、水は絶えなく流れゆく。自然の中はやはり落ちつくもので、こんな森の中になど誰も居ないと思っていたのだが。
 ―――あんた変な身なりしてるな。見たことない奴だ。
 びくりと肩をふるわせて背後を顧みると、そこには自分よりも遙かに大きな見てくれのポケモンがいた。がっしりとした体つきで、橙の体には黒い縞が刻まれている。頭や首周りや足には、尾と同じような柔らかなベージュの毛がまとわりつき、瞳の色は見入ってしまうような鮮やかな金。ウィンディ、といったポケモンだった。
 ―――見たことない奴を見るのは、これで二度目だ。 お前はなんて名前なんだ?
 こんな下等生物に名前を教えてやるものかと、折角の優雅な雰囲気を壊されて機嫌を損ねたセレビィは片目を眇めて言った。
 ―――いいじゃん、名前のひとつやふたつ。
 いや良くない。なんて変わった奴なんだ。変だぞ、こいつ変だ、変の中の代表だ。そう思った。
 しかし彼はその後に告げられる言葉に目を剥くことになる。
 ウィンディは微笑しながら言った。
 ―――じゃ、勝手に呼び名決めるな。 えーっと…、それじゃあ想雫。おもうしずくでソーダ。水みたいな透明な感じしてるからな、お前。
 そんな炭酸飲料みたいな名をつけるやつがあるか、と突っ込みたいのは山々だったのだが、セレビィは敢えて何も言わないで目を細め、近くの木の枝に腰を落ちつかせた。手を差し出して、彼は僅かに笑みを滲ませる。
 変わった、奴だなぁと言いながら。そして、セレビィは尋ねた。―――お前の名はなんと言うのだ?
 この世に在るものの全ては異物に嫌悪感を抱く。見たこと無いものには間を置き、自分と違う者とは距離をとる。想雫はそれを知っていた。今まで、伝説のポケモンであるからと言われて、幾度と人間に捕まりかけた。ポケモンからは見たこと無い奴だと言われて、遠巻きにされた。それが普通なのだ。
 そのウィンディはそこに座して、人なつっこい顔で笑った。
 ―――俺? 俺は橙虎って言うんだ。よろしくな、想雫。
 橙虎は変わった奴だった。他のポケモンとも直ぐに仲良くなるが、誰ひとりとして差別しない。皆同じ態度で接する。しかし想雫にだけは少しだけ違って、彼の友人の話をするのだ。
 ―――紅歌っていうすっごい美人の俺の彼女がいてー、鈴朱っていうすっごい優しい俺の親友がいてー、元いた場所はほんとに楽しかったんだよ。
 ―――いや別にここが楽しくないってわけじゃないんだけどさ。 ほんと良い奴らで、あんたも仲良くなれると思うよ。だってあんたも、すっごい温かいから。
 温かい。その言葉がどれだけ嬉しかったか、想像がつくか?言葉なんかじゃこの気持ちは表せない。とにかく、嬉しくて、むずがゆくて、優しくて。温かいのはどっちだと、そう言いたくなったことを、今でも覚えている―――。

「橙虎からお前達のことはよく聞いている。…ほんの僅かな期待に、賭けたいと思う。 今から永遠の眠りについた橙虎の目を覚まさせる術を用いる。」
 そんなことは本来あってはならない。時を操る者として禁止されていることを、犯そうとしている。それでも構わない。例えばこの身を代償とするとしても、それでも構わない。もう一度、橙虎に幸福を。

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