マチビト。 後編
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眠ったままの大きな体躯のウィンディがそこに存在した。ぴくりとも動かないし呼吸もしていない。やせ衰えた老いたような顔。彼の時を戻すのだと、想雫は言った。そのためには彼を呼ばなければならないという。彼を呼ぶためには、キーワードが必要だという。
「キーワードとは、なんですか?」
紅歌が尋ねた。
「我も知らぬ。ただ、橙虎を起こすための言の葉だということ。それだけがヒントだと、神から言いつかっておる。」
「…そんな無茶な…。」
鈴朱が頭を振った。この世には数え切れないほどの言の葉がある。なんだ?何を言えばいい?
鈴朱が呼んだ。
「…橙虎。」
しかし違うらしい。起きる気配がない。
紅歌が言った。
「おかえり…。」
これも違うらしい。瞼が上がる気配がない。
想雫が言った。
「…温かい…。」
違う…。息をする気配がない。
なんだろう…。紅歌が引きつった声で、叫んだ。
「橙虎、橙虎!起きて…。ただいまって言ってください…!私、待ってたんですよ、ずっとずっと!約束を破らないで…。」
落ちた涙が橙虎の鼻に当たった。そしてそれは流れ落ち、地に吸い取られる。水は流れる。
その様子を鈴朱は無情に見ていた。…また、お前は泣かせる…。傍にいるだろう、今は。喋ってやらなくちゃ、駄目だろう?泣いてるじゃないか。あやしてやれ、泣きやませてくれ。見ているこっちも辛い。そして何より、お前自身も辛いはずだ。…これ以上、泣かせてやるな。
「…お前が…」
紅歌を泣かせたら駄目だろう…。
思い詰めるような鈴朱を想雫は横目で見やった。おいこら橙虎。お前こいつらが大切だとか言ってなかったか?辛そうじゃないか。なんでもいい、起きろ。我がお前の時を遡らせてやる。だから、お前は起きろ。起きて、幸福を味わえ。幸福を、味わわせてやれ。……辛そうな顔をさせたら、駄目だろう?彼女を泣かせるのは罪なことだ。親友を苦しめるのは罪なことだ。…ほら、その罪はお前が起きることで洗われる。
「…お前が…」
大切なひとを不幸にしたら駄目だろう…。
潤んだ目で紅歌は橙虎を見つめた。ごめんなさい、ごめんなさい…。泣いて、ごめんなさい…。泣いていたら、いつものように、貴方が優しい声で慰めてくれるんじゃないかって、思って。夢の中で何度も貴方は何度も私に語りかけてくれて。でも起きるといつも何もなくて。…悲しいのです、貴方が居なくて。…苦しいのです、貴方が居なくて。泣いたら駄目なんだと、わかっているのです。エンテイを困らせてしまいます。心優しい時渡りのポケモンも辛そうです。泣いたら駄目なんだと、わかっているのです。でも、駄目なんです。泣くしかできないのです。起きて、起きて下さい。私はずっと、ずっと約束を守ってきたのですよ。エンテイだって約束を守ってくれたのですよ。セレビィだって貴方の使いで来てくれたのですよ…。
「…貴方が…」
約束を破ったら、駄目でしょう…。
嗚咽を漏らしながら紅歌は言った。
「橙虎、聞いてますか?聞こえますか?“紅歌”です。
約束を、守ってますよ。今も、貴方の帰りを待ってますよ。いつ貴方が帰ってきても、おかえりと言って、抱きしめてあげます。だから…」
目を伏せて俯いて鈴朱は言った。
「橙虎、私がわかるか?…“鈴朱”だ。
私がこの子を泣かせたとき、お前は私を怒ったじゃないか。なのに、お前はこの子を泣かす。早く、泣きやませてくれ。そうしたら、この子は笑ってくれる。だから…」
青い空を碧い瞳で見て想雫が言った。
「橙虎、お前から貰ったこの“想雫”という名、結構、気に入っているのだぞ。
お前も、変な奴だが嫌いではなかった。 我に温かさをくれたのは誰だと思う?お前の大切なひとたちにも我にくれたように、温かさを授けてやれ。だから…」
永遠の眠りから、永久の夢から、目を覚ませ―――。
夢を、見てたんだ。
大切なひとが、泣いてる夢。
大切なひとが、願ってる夢。
大切なひとが、求めてる夢。
あ゙ー…、眠い。
眠いけど、起きなくちゃ。
起きて、紅歌を笑わせてあげないと。
起きて、鈴朱を安心させてあげないと。
起きて、想雫に温かさを与えてあげないと。
やらなくちゃいけないことが、たくさんある。
寝てる場合じゃない。
…ああ、幸せな夢だったなぁ…。
誰かに、必要とされてる、夢。
もう少し、見ていたかった―――。
目を覚まして、一番初めに言われた言葉。…何も三人そろって言わなくてもいいじゃないか、と橙虎はぼやいた。
「バカー!!なんで早く帰ってこないのですかっ!!」
「バカ!!とっとと起きろ!この寝坊野郎が!!」
「バカ野郎!!いつまで寝てる気だ!もう昼過ぎてるぞ!!」
橙虎は苦笑した。
あー、夢の方が幸せだったかも。
でも、
夢から覚めて幸せになったかも。
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