PARADOX

久方小風夜さんに感想を送る

今でも時々、過去を捨てたい人々がやってきます。
もうとっくに朽ち果てた、忘れられた伝説だと、私自身、思っていましたが。
意外と残っているものなんですね、伝説、って。

私の元にやってくる人間たちに、私はいつも言っています。

『夢物語ですよ。そんなこと』




PARADOX
―the ”Spirit of the Time”―




青白い月の光が、森の中にぼんやりと射し込んでいる。
足元は真っ暗だ。少しでも気を抜いてしまったら、木の根に躓いて転んでしまうだろう。
1人の少年が、森の中の道を進んでいる。転ばないように慎重に、しかし、出来る限り急いで。

しばらく進むと、森の中央にたどり着く。少年は歩みを止める。
大きく、力強く、大地を支えているような1本の樹。
その前には、その樹と対照的な、小ぢんまりとした、小さな祠。
ようやく着いた。安堵の表情で、少年は祠の前へ進み出る。

少年は、ポケットの中に入れていたものを取り出す。
金色と銀色の2色に彩られたモンスターボール。この祠に伝わる『伝説』を呼び覚ますために必要な道具。

少年がそのモンスターボールを祠に供える。すると、祠が突然、淡い緑色の光に包まれた。

光の中から、1匹の小さなポケモンが姿を現す。
淡い緑の身体。黒く縁取られた目。背中には羽のようなものがはえている。

『森の護り神』、そして『時の精霊』――セレビィ。


セレビィはその青い目で少年をじっと見た。

『……伝説なんて、もうとっくの昔に朽ち果てていると思っていました。今時、私の前に現れる人間がいるなんて思っても見ませんでしたよ』
「伝説は根拠なく語られることはない。そんなことを、僕の故郷の山にいるおじいさんとおばあさんは言っていました」
『知っています。ホウエンのおくりびやまですね。確かにあの場所は、今なお伝説が語り継がれているようです。しかしここは違う。ここはジョウトのウバメの森です。伝説はもう死んでいます』
「しかし祠は物語っています。伝説はまだ生きているんだと」
『……面白いことをいう子ですね。』

セレビィは軽く笑った。

『私を呼び出した理由は何となくわかります。大方、私の『ときわたり』を使って過去に戻りたいというのでしょう』
「……その通りです」

少年の顔は真剣だった。

「セレビィ、君は時を司る精霊なんですよね?」
『そうですね。私は過去も未来も知っています』
「それならわかるはずです。僕はもう一度やり直したい。一から全て、やり直したいんです。過去を変えたいんです。……人生を、やりなおしたいんです」

風が吹く。木の葉がざわめく。
セレビィはその音に耳を澄ませて、静かに言った。

『……数え切れないほどの人間が、私のところにやってきました』
「?」
『その誰もが口をそろえて言いました。「過去を変えたい」「もう一度やり直したい」。そのために私を頼ってきました』

セレビィはふっと笑った。


『夢物語ですよ。そんなこと』


少年は眉根を寄せた。セレビィは淡々と続けた。

『あなた、『タイム・パラドックス』というものをご存知ですか?』
「……いいえ」
『例えば今、あなたが過去に戻る。そこでもし、過去のあなたが今のあなたを殺したら?どうなると思いますか?』
「え……?」
『その過去のあなたは成長して、私の元へやってくる。そして過去に戻る。そして、過去の自分に殺される。この繰り返しです。あなたは永遠に殺されることになる』
「そ……そう、ですね……。」
『そしてもう1つ。過去のあなたは今のあなたを殺すことになる。すると今のあなたは、過去に殺したことになる。……今の自分を』
「……あ、あれ……?」
『あなたが殺され続けるのは未来に永遠だけではなく、過去にも永遠。時の続く限り、ということになりますね』
「……?」

少年は首をひねった。わけがわからない、といったように。
セレビィは少年の周りをくるりと1周回った。

『私が言いたいのは……過去に戻ったことで、その間にあなたがしたことが変わるかどうか、ですよ』
「……え?」
『過去は変わりません。今のあなたが過去に戻るなら、あなたの過ごしてきた過去に、今のあなたがいるはずです。』
「それでは、あなたはなぜ、ときわたりを……?」

セレビィは動きを止めて、少し考える。
しばらくの沈黙の後、自嘲するように笑って言った。

『……結局のところ、私も過去を変えたかったのですよ。過去に戻ろう、歴史を変えようと、何度もしてきました。しかし、歴史は変わらなかった。積み重なった過去は、変えることは出来なかった』
「変わらなかった……。何でですか?」
『過去は過去、すでに起こったことです。こぼれたミルクを嘆いてもしょうがないんです。それを再び器に戻すことは出来ない』

セレビィはくるくると飛び回る。月明かりの中を。
それは幻想的で、美しい光景だった。

『何度も時を渡って、私は気がついたんです。時間の流れ、運命とは、抗うことに出来ないもの。この世界は、過去、現在、未来、全てが既に決められているのです。時間は、それに沿って流れているだけなのです。私たちはその流れから決して抜け出すことは出来ない』
「……それで君は、時を渡ることをやめた……そういうことですか?」
『そうです。私の存在を伝説にして、私のことを忘れさせようとしました。……まさかまたこうして、私を頼って人間が来るとは思いませんでしたけどね』


少年は、セレビィの言葉を噛み締めた。
全ては定められたとおりに動いているだけ。例え自分が過去に戻っても、それですら、既に決められていたこと。
過去に戻っても、過去を変えることは出来ない。歴史は変わらない。

「……セレビィ、僕は……どうすればいいんですか?」
『?』
「過去を変えられない、人生をやり直すことが出来ないのなら、僕はこれからどうやって生きればいいんですか?」
『……さあ。それは私にもわかりません。あなたの人生はあなた自身のものですから』

風が吹く。木の葉を揺らして、風が吹き抜ける。
薄雲が空に広がり始める。月明かりがぼんやりと煙ってくる。

セレビィは、優しい声で言った。

『人生をやり直したい……。そう思わない人間はいません。特に、あなたのような、夢を追いかける年頃の子供は』
「夢を、追いかける……」
『無邪気だからこそ許される贅沢です。しかし、生きていく上では何より大切なことです。夢を追いかけることを忘れた人間は、前進することをやめるのです』

セレビィは祠の屋根の上に腰を下ろした。祠の内部から、再び淡い緑色の光が湧き上がってくる。

『まずはゆっくり、眠ることです。目が覚めたら……もう一度、夢を捜しましょう』

雲が月を覆い隠す。
淡い月明かりが、森から取り払われる。森が闇に包まれる。
小さな祠は既に光を消し、『時の精霊』の姿も既にない。


小鳥のさえずりで、少年は目を覚ました。
辺りを見回した。見慣れた自分の部屋のベッドの上だった。
昨日の夜のことは、夢だったのだろうか。今となっては、もうわからない。

『目が覚めたら……もう一度、夢を捜しましょう』

精霊のその言葉が何を意味するのか。少年にはまだわからない。
今日の一日も、昨日と何も変わらないかもしれない。相変わらずの、つまらない人生かもしれない。
憂鬱で、気が滅入る。暗闇の中をたった独り、さ迷い歩いているような気分だ。

それでも……過去は変えられない。そして、未来も……既に決まっているのかもしれない。
しかし、たとえ時の流れが決まっていても、変えられるものはある。


『例え定められている時の流れ、運命でも、あなたがどう受け止めるか……それは、あなた自身が決めることです』


風の中に、セレビィの声が聞こえた気がした。

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