窓から流れ込む柔らかな風が、白い肌をくすぐるように撫でていった。
差し込んでくる光はシーツの表面に反射してキラキラときらめき、血の気の失せた頬にわずかな温もりを取り戻させる。
膨らみ始めた桃の花を、翼を持つ小さな鳥たちがついばんでいた。
笛の音にも似た彼らの世間話に混じって、パタパタと廊下を走るサンダルの音が部屋の前を通り過ぎる。
少し行ったところでサンダルの音は立ち止まると、女性の声のようなものをあげて、また慌しく走り去っていった。
……誰？
長い髪に隠れた耳は、一刻前まで気付きもしなかったニンゲンの存在を感じ取っていた。
スニーカーが床をこする甲高い音が、窓の外に集まっていた鳥たちを一斉に飛び立たせる。
「……いつか、キミは言っていたね。」
低い響。 巡る風の香りに、異なる空気が交じり合っていく。
「もしも、これがおとぎばなしであるならば、きっと自分のところには王子が現れて目覚めさせてくれるのだろう、と。
妄言とも思えるような理想を次々と口にするキミが、この言葉だけ、放つのをためらっていたことを覚えているよ。
いつか、その言葉の真意を聞きたいと思っていた。 今なら教えてくれるかい？」
頬に、柔らかな髪が触れていた。
鼓動が耳につく。 あたたかな、包み込むような肩の感触と、唇に残る、甘いような、やわいような感触。
体がポカポカしていた。
少し寝ボケた、重いまぶたをゆっくりと開くと、ぼんやりとした視界の中で色の薄い青年が緑色の瞳で微笑んでいる。
「キミの顔を初めて見たよ。」
「……」
声が出ない。 知っている顔、知っている声。 伝えようとするが思い通りにならず、薄いシーツの下で身体がもがく。
軽い苛立ちを覚えて眉を潜めた瞬間、細い身体は大きな２本の腕に包み込まれた。
「あー……」
声が出る。 それは自分が思っている以上にかすれて、言葉を紡げるかも怪しいものであったが。
「……体中がいてぇ……」
「キミの話を真とするなら、およそ８７０６時間、キミはここで眠っていたことになる。
全身の筋肉は弱り、しばらくは立つこともままならないだろう。 だけど、そんなことは問題じゃない。」
そう言って細いあごを持ち上げる手は、彼女が思っていた以上に大きかった。
なんだこれ、動かない口でそうつぶやいた。
視線がぶつかって、不自然なほど強く心臓が脈打っている。
「キミがここにいる、そのことが重要だ。」
折れそうな細い手をとると、青年はベッドの前にひざまずき、うやうやしくその手の甲にキスをした。
笑いが漏れる。 その姿はまるでおとぎばなしに登場する騎士のようだ。
立ち上がろうとする彼女に青年は手を貸すと、ふわりと、窓の外に視線を向けた。
つられるように窓の向こう側を見て、彼女はやせこけた顔をほころばせる。
慌てて飛び出そうとしてよろける彼女に、飛びつくようにして小さなポケモンが窓から飛び込んできた。
見間違うはずもない。 彼女のポケモンたちだ。
思い通りにならない声で必死に青年に言葉を伝えようとする彼女に、青年は彼女の手を取って、彼女を白い部屋の外へと促した。
「行こうか、トウコ。」
「……おう！」
「それじゃあ、まだトウコちゃん見つかってないんだ？」
雑踏のひしめく駅のベンチで自動販売機で買ったオレンジジュースを飲み込んでから、ベルは少し疲れ気味といった顔をしているチェレンにそう言葉を返していた。
「……アララギ博士みたいにプラズマ団に捕らえられてたんじゃないかと、城中探したんだけどね。
あいつらがトレーナーから奪ったらしいポケモンは山ほどいても、人の姿は全く……」
不規則な生活が続いているせいか、トウヤが大きなあくびをする。
せっかくおごったコーヒーがこぼれないよう、チェレンは彼の手からそれを取り上げた。
コトン、と小さな音をあげてベンチの上に紙のコップが座る。
遠くで発射のベルが響き、人の流れが慌しくその方向へと向かっていった。
そろいの紙袋をぶら下げた一団が通り過ぎるのを見つめながら、トウヤはあくびの止まらない口元に手を当て、小さく、小さくため息をつく。
「シリンダーブリッジから落ちたって聞いてたから、下流の病院や施設を片っ端から探してたんだけど……
見当違いだったのかなぁ……あれからゾロアークも見かけないし……」
「そういえば、プラズマ団にトウコちゃんのポケモンも捕まってたって言ってたよね？ その子は？」
「そっちも事件の後、行方不明。
近くにいたアイリスの話じゃ、解放された途端どこかに飛び去ったって聞いてるけどね。」
「そっかあ……『どこか』じゃ、どこかわかんないね。」
「……うん。」
苦いコーヒーを少しだけ飲み込むと、トウヤはベンチに座り直した。
バッグの中には、今でもＮの贈り物が残っている。
「……これで、良かったのかな。」
ぽつりとつぶやいたトウヤの言葉に、ベルは大きな目を瞬く。
チェレンはぬるいコーヒーを飲み干すと、まだ白いページの残るポケモン図鑑を取り出しながら小さく息を吐いた。
「プラズマ団だって一枚岩じゃなかった。 Ｎのように本気でポケモンを想って動く人間も、ゲーチスのように私欲のためにポケモンを利用する人間だっている。
それはトレーナーだって同じだ。 僕だって、親に捨てられたポケモンを保護している人も、違法に捕まえたポケモンを売りさばく人も、どっちも見てきた。」
「あ、あたしも！ 同じ家の中なのに、バトルで負けっぱなしだからもう戦わせたくない、プラズマ団に入りたいって人と、プラズマ団にいたけどやっぱりポケモンと一緒にいたいってプラズマ団を抜けてきた人と、どっちもいたの。」
右手を高く上げたベルに、道行く人の視線がわずかに傾く。
恥ずかしそうに眼鏡を持ち上げながら、チェレンは咳払いを１つしてトウヤへと視線を向けた。
「……だから、どちらが正解かなんていう答えはないさ。
というか、これって、そもそもキミが言い出したことだよね？」
「う、うん……でも、いざコトが動いたら、やっぱり、なんか……少し迷っちゃって。」
トウヤはカップの底に残っていたコーヒーを飲み干す。
天井から下がっている時計を見ると、立ち上がってズボンの尻を軽く払った。
チェレンは中身のなくなった紙コップを重ねると、バッグのベルトをととのえ、トウヤに合わせて立ち上がる。
「……考え続けるって決めたんだろう？ そのくらいなら付き合えるさ。」
「うん。」
「ふたりとも、どこ行くの？」
不思議そうに尋ねるベルの手からプラスチックのコップを受け取ると、チェレンはそれをゴミ箱の方へと持っていく。
トウヤはホルダーにあるモンスターボールの様子を確認すると、ベルに向かって薄く微笑んだ。
「このギアステーションから出てるバトルサブウェイのマスターがトウコちゃんの知り合いみたいだから、何か聞けることがないかと思って。
地下鉄の関係者だったらイッシュのことにも詳しいだろうから、もしかしたらボクたちが見落としているようなことも気付くかもしれないしね。」
「僕はその見送りをね。 まあ、トウヤなら大丈夫だとは思うけど……ベルも近くに来てるっていうし、情報交換も兼ねるって意味で。」
「そっか。 ゴメンね？ あたしからはたいした話もできなくって。」
小さく首を横に振ると、トウヤは笑みを浮かべる。
「そんなことない。 ここのところ自分でも根をつめてたと思うから、ベルの顔見て元気が出たよ。
それじゃ、もう行くね。 何かあったらライブキャスターで連絡するよ。」
「あ、待って！ あたしも見送りに行く！」
バタバタと散らかしていた荷物を片付けるベルにチェレンが大きなため息をつく。
時計を気にするトウヤに先に行くよう言いかけたとき、慌てて走り出そうとしたベルがチェレンの肩にぶつかった。
照れたように笑うベルの手を引き、チェレンはトウヤの後に続いてオレンジ色の看板を目指す。
目指すは７番線、マルチトレイン。
『バトルサブウェイにようこそ！
マルチトレインでは、トレーナー２人でポケモンを２匹ずつ持ち寄り、協力してマルチバトルで戦います。
ポケモンは４匹すべて違うポケモンでなくてはならず、１人のポケモン２匹に同じ道具を持たせることはできません。
戦いの場となる列車は７両編成となっており、７組のトレーナーと戦うことになります。
みごと７組倒せたらバトルポイントを獲得することができますので、がんばってください！』
「……トウヤ、マルチトレインに挑戦するって言ったよね。 ……パートナーは？」
「あれ……？」
少し赤くなった頬をポリポリとかいたトウヤはチェレンに視線を向ける。
首を横に振られた。 そりゃそうだ、プラズマ団の一件の後、チェレンのポケモンたちはポケモンセンターで療養中なわけで。
ベルに視線を向けると、彼女も首を横に振る。 そりゃそう……なのだろうか？ よく分からないが、彼女が無理というものは無理なんだろう。
「困ったな……」
発車時間が迫る。 周りのトレーナーたちは既に、誰かとタッグを組み、楽しそうにこれからのことを話している。
頭を抱えるトウヤの肩を背に、チラリとベルが後ろを向いた。
視線に気付いたチェレンが驚いた顔をして眉を上げる。
そっと人差し指を当てた唇は、いつか見たときと同じようにいたずらっぽく微笑んでいて。
「こんにちは！ あなた、マルチトレインに挑戦するの初めてでしょ？
マルチトレインに挑戦するにはパートナーが必要なの。
もしかして今日は一人？ だったら、わたしとパートナーを組もうよ！ うん、うん、それがいいわ！」
驚いて固まった少年のすぐ近くで、「イシシッ」と、小さなポケモンが笑い声をあげる。
振り向いたトウヤの視線の先で、ポニーテールの少女が手を振っていた。
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