鏡の中で、2人のファイアが不思議そうにお互いの顔を見合わせていました。
耳の周りで渦巻いていたドライヤーの風が止まり、ファイアはくすぐったそうに顔の横をかきます。
首の後ろに残った傷にバンダナを巻いてもらうと、鏡の向こうでおかっぱの女の子が笑っていました。 長く、伸ばし続けていた髪を切ってしまうのは残念で、同時に仕方のないことでもありましたが、不思議とファイアは嫌ではありませんでした。
「ヒナ、ありがと。」
朝の身支度も終わり、ファイアはいつものバッグを引っ掛けると立ち上がりました。
もうナナは話すことは出来ません。 ヒナとも、明日からは別々の道を歩くことになります。
それはファイアが望んだことでもありました。 ポケモントレーナーになった日から『なんとなく』わかっていたことでもありました。
もちろん、「みんなずっといっしょ」が、1番いいことだったのですが。
「・・・鏡の前で身だしなみをチェックするの忘れないでね。」
「うん。」
「何かあったら電話使うのよ。 必ず誰か、いるはずだから。」
「うん。」
「水分はこまめに取りなさい。 体に・・・気をつけて。」
「うん。」
普段は細々言わないひなたが珍しくナナのように口うるさいほど注意する言葉を、ファイアは一生懸命覚えました。
後ろからぎゅっと抱きしめられると、指先からひなたがとても自分のことを心配しているのだということが伝わってきます。
「本当に危険なときは・・・迷わず『能力チカラ』を使いなさい。
 人を護るために授かった能力なのにモモ自身が護られないなんて、バカな話があっていいはずないわ。」
「・・・うん。」
5の島を半分吹き飛ばしてしまったことを思い出し、ファイアは一瞬答えに詰まりました。
ファイアたちは元々、2人で1つの神眼でした。 ひなたがいることで、ファイアはチカラを制御『してもらって』いました。
ミュウツーに対抗するためや、2人で旅をしていたときはそれでも良かったのです。
でも、ファイアは今日から1人です。
誰もが心配していることを、ファイアはやっぱり、分かっていました。




ポケモンセンターを3歩進んだところで、ファイアはここでいいよ、とひなたに言いました。
もっと立派なポケモントレーナーになるまで、家には帰れません。 学校に戻るには、少し有名になりすぎました。
今度はちゃんと、自分のチカラだけでポケモンマスターになるために、ファイアが本当に生きていけるようになるために、旅のやり直しです。
「いってきます!」
1年前ファイアの家から旅に出たとき、玄関の前ではレッドが泣きそうな顔をして笑っていました。
今は、ひなたが同じ顔をしてファイアのことを見守っています。
ひとりじゃないよ。 ファイアは自分に言い聞かせます。
だけど、3歩歩いたところで口が酸っぱくなりました。 5歩歩くと鼻の中が痛くなりました。 7歩歩くとまぶたがジンジンと熱くなりました。
10歩歩くともう・・・立ち止まりそうです。

あからさまに歩幅の小さくなったファイアをヒナタはハラハラしながら見ていました。
声をかけようか、いっそ引き止めようかと手を虚空にさ迷わせ、結局、何もしないことに決めました。
お互い、レッドがミュウツーを捕まえたおかげで役割のなくなった神の子です。 いつかは別れなければならないことはひなたにも解っていました。
それが今だというだけのこと。 そう自分を納得させようとしてはいるのですが、ひなたはいつまでもファイアの背中から目を離すことが出来ません。
あの子には、ファイアには手を引いてくれる誰かが必要。 今までも、そしてこれからも。
ポケモントレーナーになるまで、それはレッドでした。 なってからは、それはひなたの役目でした。
そしてこれからは・・・やはり自分が行こうかとしたとき、ひなたの目の前で赤いジャケットが翻りました。
それを見ると、ひなたは少しだけ目を見開き・・・・・・ファイアに背を向けました。
もう、ひなたも『ファイアに頼って』はいられないのです。



ファイアの小さな手を、細く長い腕が引いていました。 止まりがちだった足はよろめき、時折つんのめりながらも前に進みます。
「リーフ?」
問いかけてもリーフは答えず、ただファイアの手を引いて早足で前へと進んでいきます。
夏休みの前、怪しい人にはついていかないようにしましょうと言った先生の言葉を思い出して、ファイアは少し怖くなりました。
だけど、目の前にいるのはリーフです。 顔は見えないけど、神眼独特の感触はないけれどそれはわかります。
しばらくファイアは、リーフに引きずられるようにして歩いていました。
突然のことに訳がわからなくなって、息も切れ始めて、ひなたの姿もポケモンセンターも見えなくなった頃、やっとリーフは手を離してくれました。
顔は見せないままです。 強引に引っ張っていた手の代わりに「つかまればいいよ」と言いたげな手のひらが広がっているのを見て、ファイアはそれをぎゅっと握り締めました。
「もう、泣いていいからな。」
「・・・・・・う。」
返事しようとした声は、よくわからない音になってぎざぎざに飛んでいきました。
さっきまでとは違い、とてもゆっくりにリーフは歩きます。
同じくらいのスピードでファイアも歩くと、途端、ずっとガマンしていた不安や、淋しさや、心細さ。 いろんな気持ちがあふれ出して、ファイアは大声で泣き出しました。

泣きじゃくるファイアを引きずりながら、リーフは少しだけ、ほんの少しだけ困っていました。
リーフ自身も家を離れてから1週間ほど夜の間は鼻水と戦った経験がありますから、ファイアの気持ちはなんとなくわかります。
ポケモンセンターからも離れたことですし、今のファイアの姿をひなたたちに見られる心配もまずありません。
でも。 だけど。
道をすれ違う人たちはみんなファイアとリーフのことを見ていました。
同じ髪の色。 大きなリーフと、小さなファイア。 人からは兄弟のように見えるのかもしれません。
だけど、それは嫌だな。 リーフは少しだけ歩みを早めます。
泣いてもいいよ。 早く泣き止まないかな。
2つの気持ちがぶつかって、夏の太陽のようにチリチリとリーフの心を焼いていました。
振り向いて顔を見たい衝動を抑え、リーフは出ることもないツバをごくりと飲み込みました。
泣き止んだら、ずっと聞きたかったことを言ってみよう。 そう決めて、リーフはまっすぐ歩き続けます。
けど、ファイアはなかなか泣き止みません。 リーフは空に向かってちょっとだけ舌を出すと、言おうとしているフレーズを音には出さず口にしました。
「一緒に行かないか? ・・・・・・ずっと、一緒に行かないか?」