前日からの雨が嘘のように、その日の空は青く澄み渡っていた。
テントから顔を出したプラチナが一直線に続く水平線を見つめて顔をしかめ、
「わっ、風が冷たーい! マイ、そんなとこにいたら風邪引いちゃうよ?」
淡い太陽の光を浴びるマイに声をかけた。
「……いい。」
「なにが?」
「こんな日は、氷空の花束が見られる……そんな気がするから。」
首だけテントから出したプラチナに背を向けたまま、マイはそう答えると視線だけを空にさ迷わせる。
ふーん、と、気のない返事をすると、プラチナは首を引っ込めて、上着を着て、また首だけをテントの隙間から覗かせた。
「花っていえば、マイはソノオタウンに行ったことはある?」
「……知ってる。
 町を覆うほどの花の楽園……でも、そこにもあたしが求めるものはなかったわ。」
「そっかー、でも、ひとまず無事でよかった。」
なにが、と、マイは聞こうとして振り返ったままマイは固まった。
そこにあったのはドダイトスか、はたまたカメックスか、プラチナの首だけがひょっこりと飛び出したテント。
不精のきわみといった体勢で難しい顔をすると、プラチナは口が開きっぱなしのマイに向かって話を切り出した。
「あたし、あの近くで怖い目にあったことあるんだよねー。」





「あ、あった!」
ポケッチに表示された地図から顔を上げ、プラチナは高い声をあげる。
橋もロクにかけられていない町はずれの森の中に、その建物は建てられていた。
タタラ製鉄所。 テンガン山から掘り出した鉄鉱石を機械部品などに変える、シンオウを代表する工場だ。
プラチナがその場所を訪れたのは、楽園とも言われるソノオタウン名物の花畑がどうやって出来たのかを知ろうと思ったからだ。
隠れながら移動したので成り行きで、と言われたら反論は出来ないが。
町の方向に広がっている広大な草むらを横目に小さな橋を渡り、プラチナとパールはメルヘンな景色に似つかわしくない金属とコンクリートの建物を見上げた。
「物好きだな、お前……」
本当の成り行きでついてきてしまったパールの言葉を背に、プラチナはチャイムを押した。
少しの間を置き、インターホンに出た男の声に見学だと用件を伝えると、重々しい門が低い音をあげて開く。

作業着を着た初老の男性に、プラチナは自分から近づいていって軽く自己紹介をする。
「へえ、ナナカマド博士の! まだ若いのに感心だねえ。」
ヒリつくような熱気の中、汗ひとつかかずに所長だというその男はカラカラと笑い声をあげた。
外からもある程度聞こえてはいたが、壁一枚超えると動き続けるモーターの音が髪の先を揺さぶり、何かの沸騰する音が鼓膜を叩く。
「でも、何で製鉄所に? 見ての通り、ここにポケモンは1匹もおらんよ。」
「ヒカリ、発見だ。 マフラー巻いてた方が涼しい。」
「ジュンちゃんちょっと黙ってて。
 ええと、これは私自身の興味の方が強いんですけど……花の楽園と言われるソノオタウンの成り立ちに、製鉄が深く関わっていると聞きました。」
そうプラチナが切り出すと、工場長は穏やかだった笑みを曇らせて顔を少しうつむける。
「……あまり、楽しい話ではないかもしれないよ。」
「まあ、そうでしょうねえ。」
髪をいじりながら、プラチナは視線を外して答える。
よく音の響く階段を上がり2階の事務所に通されると、先ほどの熱気とはうってかわって寒いほどの冷房にプラチナとパールは自分の体を抱えた。
所長は灰色のラックをゴトゴトと鳴らし、分厚いファイルを奥から引っ張り出す。
それを机に置き、中にはさまれている白黒の写真を蛍光灯の下にさらす。


「これが……タタラ製鉄所、最初の写真。 あ、ちなみにこれ、私の親父ね。」
所長が指差したそれには白い壁を背に製鉄所の看板を抱え笑っている少し無骨な男たちの姿が写っていた。
一番右側で仏頂面をしている男を見て「似てない」と言いかけたパールの腹にプラチナは肘鉄砲を打ち込む。
「今とあまり変わりませんね。」
「元々タタラ場だったところが製鉄所になったからね。
 だけど、このときは酷いもんだったよ。 ちゃんとした製鉄所になってやっとゼロに……森を切り拓く必要がなくなったようなもんだからね。」
「?」
「あぁ、そうか。 『タタラ』はわかるかい?」
首を横に振った現代っ子に、製鉄所の所長は苦笑いを浮かべる。
「タタラというのは、火を高音にするために空気を送る『ふいご』のことだよ。
 この辺りは昔からマサゴで取れた鉄を、人が使える鋼に精製する製鉄所だったんだ。
 ただ、そのためには高温の火をくべなきゃならない。 昔は電気やガス、石炭なんてものはなかった。」
ハッとしたパールの顔を見て、所長は満足そうにうなずいた。
「そう、昔は木を切って鋼を作っていたんだ。
 ここいらにある平地はみんな、そのときの伐採跡だよ。」
「それが、なんで『花の楽園』に?」
尋ねたのは、プラチナではなくパールだった。
聞かなくてはならないような顔をしている彼に微笑むと、所長は2つ先のページをめくって説明を続ける。
「見てごらん、この製鉄所が出来た当時、ここいらはまだ荒地だったんだ。
 機械化するようになって人手が必要になり、ひとつ、ふたつと、人の住む家が増えてきた。
 それでも最初は誰も荒地であることを気に留めてなかったんだが、谷間の発電所が出来たころ、誰かがこの荒地に花を植えようと言い出してね。
 まあ、それ自体は反対する人はいなかったなあ。
 ところが、ところがこの作業は町や製鉄所を作るとき以上に、難航に難航を極めた。」
「へ? 花なんて、タネまいて水やっときゃ勝手に育つんじゃねーの?」
「みんなそう思ってたんだけどねえ。
 ……咲かなかったんだよ。 誰かがそれを言い出してから5年以上……1厘も。」

所長がそう言ったとき、写真を指でなぞっていたプラチナの影が消えた。
暗くなった室内に3人が同時に顔を上げる。
「停電?」
高い声がそうつぶやくのと同時に、所長は作業着のポケットからモンスターボールを取り出すと部屋の入り口へと向かった。
「すまないが、話はまた今度だ。
 私は鉄が固まらないよう工場を管理しなくてはいけない。」
「わかりました。 今日はお時間いただきありがとうございます。」
大人びた仕草でプラチナが礼を言うと、所長は柔らかく笑って熱気こもる工場の扉を開けた。
不気味に静まり返った工場の中で、男たちの叫び声と鉄の煮える音が響き渡っている。
「イチからナナ番! 温度はどうだ!?」
「所長! ヨン番お願いします!」
「わかった!
 ……それじゃあ、私はこれで。 すみませんが、帰りはご自分でお願いします。」
プラチナの返事を待たず、所長は宙ぶらりんの鍋へと駆け寄るとその真下に先ほどポケットから取り出したモンスターボールを投げる。
2つに割れたボールからは炎のように真っ赤な、ひふきポケモンのブーバーが飛び出した。
プラチナとパールは汗を拭きながら白い炎を噴き出すブーバーを横目に、鉄網の階段を下りる。

「大変だな、鉄工所って。」
「電気が止まると工場のシステムはほとんどダウンしちゃうのね。
 でも、どうして……?」
「今度は『電気』?」
パールの質問に首を縦に振ると、プラチナは入ってきた小さな扉から屋外に出る。
熱さに慣れたわけでもないが、外に出ると春先のうららかな陽気がひどく冷たく感じてプラチナは肩の辺りをさすった。
風はほとんどなく、空は薄雲が青い空を柔らかな浅葱色に染めている。
電線を見つけて端を辿うも、黒くて細いそれは工場から敷地の外まで、なんともいえないカーブを描きしっかりと繋がっていた。
「てい……でん?」
「ヘンなの。 雪も嵐もないのに停電とか。」
顔を見合わせ考えていると、2人の顔を冷たい風が撫でていった。
何気なく風の吹いてきた方向に視線を移す。 小高い丘陵の間から見える、白い雪化粧をまとったテンガン山。
あっ、と、2人は声をあげる。 出した結論は、綺麗なハーモニーへと変わる。
「『たにまのはつでんしょ』!!」



薄緑色の『花畑』を通り抜ける間はずっと無風だったのに、発電所に近づくにつれ段々と風は強くなり、コスモスのような風車の頭が見える頃にはまるで嵐のような気候へと変わっていた。
太ももをバタバタと打ちつけるスカートを押さえながらプラチナは青白いテンガン山を苦々しい顔で睨む。
「もう! ここヤダ!」
「んなこと言ったって、風が吹かなきゃ風力発電にならねーだろ?」
「でも、また、ここ通らなくちゃいけないんでしょ?」
地図で確認した付近一帯の発電所マークと、その先の広大な森林地帯を思い出しながらプラチナは言い返す。
道はどこまでも平坦で、ようやく見つけた管理所のような建物は1のないサイコロのようにも見えた。
うんざりしながらプラチナが進もうとすると、先を歩いていたパールの肩に鼻先がぶつかった。
眉を潜めて見上げると、パールは欲しくもないプレゼントをもらったような顔で谷間の発電所へと視線を向けている。
「誰かいるぞ。」
「え?」
親指で差された先を見ると、サイコロの下で銀色のなにかがチカチカと動いている。
「……発電所の人じゃないの?」
「かも、しれねーけど……うーん……」
2秒考えると、パールは左腕を横に突き出してプラチナの足を止めた。
「ちょっと先みてくっから、後からついてきて。」


言うが早いか、パールは髪が浮き上がるくらい体を沈めるとまだモンスターボールほどの大きさにしか見えない建物へと向かって土を蹴り上げて走り出した。
何か言う間もなく取り残され、プラチナは目をぱちくりさせる。
「なによ、それー。」
まるで何か起こっているみたいに。
訳がわからない。 クラスで出席番号を無視して手を上げるジュンちゃんのくせに。
口をとんがらせるとプラチナはモンスターボールからピカチュウの『ハート』を呼び出して抱きかかえた。
後ろ姿のパールはもう小指ほどの大きさまで小さくなっている。
いつの間にやら呼び出した小さなムックルを引き連れて。
パールの存在に気付いたのか、遠くから人の話し声が聞こえる。
なにやらもめているようだった。 パールの声が何かを叫んだのとほぼ同じタイミングで、ムックルが黒い翼を激しく羽ばたき、発電所の2階の、窓ガラスが音を立てて割れた。

「えっ……」
「ぴか?」
開いた口に冷たい風が飛び込んだ。 本当に何をやっているのだ、器物破損じゃないか。
地面にハートを下ろすとプラチナは大きなバッグを脇に抱えて走る。
パールは銀色の服を着た人と怒鳴りあいながら壁に手を掛けて建物の中へと入っていく。
「……ふほーしんにゅー!」
クモのようなパールの姿を見ながら、プラチナは小さな声で叫んだ。
発電所の人に、どう謝ればいいのか、むしろこっちから警察を呼んだ方がいいのか、ぐるぐると回る思考にめまいがしてくる。
心配して顔を上げるピカチュウと目が合い、足を止める。
「ぴかぴーか?」
「……逃げちゃおっか? あたしたちだけで。」
発電所のまん前でそんな言葉を口走るプラチナにハートは顔をしかめた。
「ぴかちゅー!」
「うぅ、わかってるよぉ……でも……」
建物の上から大人の叫び声が聞こえる。
そりゃ、怒るだろう。 大切な仕事の建物に子供がガラスを割って飛び込んできたのだから。
プラチナがオロオロしていると、入り口の扉の横に倒れていた発電所の職員が体を上げる。
「あああっ、すみませんっ、すみません!! すぐに言って聞かせますので!!
 彼、本当はいい子なんです! ちょっとバカでおっちょこちょいで早とちりもしますけど……!」
「キミ……あの子の知り合い……?」
「は、はいっ!」
作業服というには妙にピッチリとした銀色の服を着た職員にプラチナは頭を下げる。
重力で落ちた長い髪の隙間から銀色の刃が飛び出して、プラチナは目を瞬かせた。
何が起きているのか理解出来ず、服の胸元に刻まれたマークを見つめる。
「じー?」
G。 コトブキのKでも、ハクタイのHでも、シンオウやソノオのSでもなく、G。
「お願いしますよぉ。 彼、ワレワレの崇高なる計画、噛み付いて邪魔するつもりですよ?」
「あ、あの……こんなことしなくても、話せばわかってくれると……」
黄色い毛を逆立てて威嚇するハートが、プラチナの胸元にナイフが近づくのを見て悔しそうにうなり声をあげる。
「扉、開けろ。」
自分を見ていない目に、プラチナは流れかけていた汗が引っ込んだ。





「……だって、もう気持ち悪くって!
 あれ、絶対ヤバいことやってる人の目だよ〜……」
話を聞いていたマイに唾を飛ばすと、プラチナは乗せていたブランケットごとヒザを抱え込んだ。
肩に乗せてもらったタオルを巻きなおしながら、マイは横目をプラチナへと向けた。
「……それって、もしかして『ギンガ団』?」
「うん、なんか、どこ行ってもいるんだよねぇ。」
マイも聞いたことはある。 最近、シンオウ全域に活動拠点を広げてきた正体不明の法人団体『ギンガ団』。
噂も時々耳にするが、人のポケモンを奪ったり、おかしな器具を高値で売りつけたりなど、あまりいい話ではない。
「けど、なんで発電所に?」
「わかんない。 でも、ただ、ホント……」





電気が消されていて薄暗い廊下をビクビクと歩いていくと、一番奥の部屋からパールの怒鳴り声が聞こえてくる。
そこに続く扉の前に立たされると、発電所の所員ではない男は持っていたナイフでプラチナの背中を突っついてきた。
「開けろ。」
パチパチと頬袋を鳴らすハートに目配せしながらプラチナは灰色の重い扉を開く。
光が差し込み、最初に目が合ったのは誰かに怒鳴り声をあげていたパール。
彼は何かを言いかけ、口をつぐみ、両手の拳を握り締めた。
目の前にいた別の女がプラチナの存在に気付き、猫のような瞳をパチリと瞬かせる。

「また子供?」
「発電所の周り、ウロウロしてまして……そちらの知り合いのようです。」
「ふーん。」
少し巻いた耳の横の髪をくるくると人差し指でいじると、何の前触れもなく女はパールを突き飛ばした。
「生意気。」
床に転がったパールのヒザに、ヒールのついた靴が降りかかる。
笑い声。 うめき声に飛び出しかけたプラチナは腕を掴まれ、部屋の入り口に押しとどめられる。
「ちょっ、触らないでよっ!」
引き離そうと体の向きを変えた瞬間、プラチナは凍りついた。
目の前にある銀色の刃。 顔の向きが悪ければ目に刺さっていたかもしれない。
腰が抜けて、プラチナは床の上に座り込んだ。 太ももに冷たい感触があるまで、自分が腰をついたことにも気付いていなかった。
「プラチナッ!?」
パールの声が、どこか遠くで響いていた。
意識があるのかないのか、自分でもよくわからないまま銀色の作業着を見上げていると、腰骨の上に何か重いものがのしかかる。
「ぴかちゅうっ!」
「ハート……」
プラチナのヒザに前足を突いてハートはうなっている。
背中の茶色いしましまを見ていたら、痺れた指先に感覚が戻ってきた。


「プラチナ、そいつから離れろ!」
発電所中に響きそうなパールの声に、プラチナの肩がビクッと反応する。
「ム、ムリ言わないでよ! まだ腰が抜けて……!」
全て言い切る前にプラチナは下っ腹をハートに蹴られた。
『でんこうせっか』で銀色の作業服を退けたハートは、跳ね返った力で冷たい床の上に降りると黄色い尻尾をピンと立てる。
「ぴかっ!」
「……たッ!? な、なにすんのッ!」
足元を襲う電撃にプラチナは思わず立ち上がる。
「って、あれ、立ってる……?」
「ナイス!」
親指を立てたパールをプラチナは睨む。
「ジュンちゃんこそ、ポケモンは?」
「そこの、赤い髪の女に……」
全てを言い終わる前に、パールの身体が飛んだ。 ほぐれかけた小さな拳が、冷たい床の上に跳ねる。

「生意気。」
灰色の猫のようなポケモンが、パールの横っ面を叩いて吹き飛ばしていた。
あっけに取られてその背中を見つめていたプラチナに赤い髪の女は、背を向けたまま、突き刺すような殺気を向ける。
「で?」
「……ちょっと、やり過ぎなんじゃないの? もうポケモン持ってなかったんでしょ?」
「だから?」
「だから、って……」
まるで話のかみ合わない相手に少しひるむが、プラチナは拳を握りなおす。
「あなたたち、おかしいわ。」
「キサマ、マーズ様に向かって……!」
「アンタは引っ込んで、フォボス。」
フォボスと呼ばれた作業服の男は赤髪の女に目を向けると部屋の入り口へと退く。
不機嫌そうに赤髪の女はプラチナを見た。
「それで?」
「マーズ……っていうの。 あなたがリーダーよね。」
「一応。」
「勝負しなさい、あたしたちが勝ったらここから出てって!」
マーズは心底面倒くさそうな顔でプラチナを見ると、唐突に口角を上げる。

「……それ、こっちが勝ったらソレナリのことを命令していいってコトだよね?」
パンッ、と風船の破裂するような音が部屋の中に響く。
ハートの甲高い鳴き声にプラチナが振り返ると、マーズの繰り出した灰色の猫がピカチュウの長い耳に爪を振りかざしていた。
「ハート!」
突然の襲撃にひるみながらもハートは頬袋をパチパチと鳴らして小さな電撃を周辺へとちりばめる。
「『でんこうせっか』!」
「ニャルマー、『だましうち』!」
強く床を蹴って飛び出したハートの前からニャルマーの姿が影のように消える。
背後に気配を感じた瞬間、ハートは床の上に叩きつけられた。
再び笑い声。 チッと舌打ちすると、ハートは床の上を転がって尻尾の先を天井へと向けた。
「『でんきショック』!」
「ぴかっ!」
目を覆うほどの閃光をモロに食らったニャルマーが悲鳴をあげる。
「なにしてんのニャルマー! 最弱級のワザくらいで……」
「『かみなり』!」
大きく見開かれたマーズの瞳に先ほどとは比べ物にならないほどの光が映りこんだ。
叫び声とともに放たれた電撃は周りのエネルギーも巻き込んで強烈な電撃をニャルマーに浴びせかける。


「なっ……!?」
呆然としたマーズの前でニャルマーのボールが床の上を跳ね、転がった。
攻撃を仕掛けた当のピカチュウはケロッとした顔をしてプラチナに向けてピースサインなどをしている。
「さあ、約束よ。 ここから出てって。
 それとも、もっと痛い目みたい?」
「ぐっ……」
頬を赤らめてプラチナのことを睨むと、マーズは乱暴に床に落ちたモンスターボールを拾った。
「ダイモス! エネルギーは!?」
「そ、それが……」
部屋の奥にいたナイフを突きつけてきたのとは別の作業員が口を濁す。
まだ余力のあるハートが電気袋をバチバチいわせながらダイモスと呼ばれた作業員を睨んでいると、バトルを始めたときよりも強い殺気がマーズから発せられた。
「ダイモスを責めないでおくれ、マーズ。 そのピカチュウが攻撃するときエネルギーが幾らか取られてしまったでな。」
その視線の先では、銀髪に白衣の老人が口元を緩ませてこちらに目を向けている。
老人は色のついた丸眼鏡を持ち上げると、なめまわすような目つきでプラチナを見つめ、ニッと黄色い歯を向けた。
「それよりも……マーズ。 その娘を捕らえなさい。」
「プルート! あたしに命令していいのはボスただ一人よ!」
気色ばむマーズに白衣の老人はプラチナに向けたのと同じ笑みを向けると、ほとんど抜け落ちている眉毛を片方上げた。
「アドバイスだよ、アドバイス。 もうここは出なければならないのだろう?
 予定より少ないエネルギーに、娘一匹、おまけをつけておいた方がボスはお喜びになるんじゃないかねえ?」
マーズがぐっと口をつぐむのと同時に背後から腕を掴まれ、プラチナの肩が跳ねた。
目の前のやり取りに気を取られてすっかり忘れていた。 もう1人の作業員、フォボス。
「ちょっと、離してよ!」
「……決まりだね。 約束どおり、ワレワレはここを引き上げるよ。
 そこのピカチュウ、変な気を起こさない方が主人のためだよ。
 入ってきたときと違って4人分の目があるからね、隙など生まれようもなかろう?」
小さな牙をむき出しにしてうなるピカチュウを横目に、白衣の老人は含むような笑いを見せて部屋の入り口へと歩き出した。
引きずられてプラチナは抵抗するが、両方の手を封じられて振り払うこともポケモンを呼び出すことも出来ない。
「やめてってば! 訴えるわよ!」
「誰にー?」
先ほどの戦いなどなかったかのようにマーズはケロリとしている。
「ハート!」
飛び出しかけたピカチュウはプラチナに向けられた刃を見て足を止める。
「ジュンちゃんッ!」
片隅に打ち棄てられたままパールは動かない。
部屋の境界線が近づき、氷水に落とされたようにプラチナの身体が凍りつく。
1歩で何かが大きく変わるはずもないのに、その線を超えたら戻ってこられないような気がして。

「ッ……たっ、助けてッ!!」

がつん、と、いう鈍い音とともに、プラチナの肩からフォボスの両手が外れる。
何が起きたかわからないうちに荒い息を耳元に響かせた『それ』は小さなクチバシを鳴らすと続けざまにワザを放った。
「きゅぴぴぴーッ!!」
甲高い鳴き声と同時に発せられた『あわ』がフォボスの身体を廊下の反対側へと叩きつける。
「ぴきゅぴっ!」
ハッと顔を上げたハートがプラチナの前に立ちふさがり、プラチナは2匹のポケモンに守られる格好となった。
額に血をにじませているポッチャマを見て、白衣の老人は空気混じりに笑う。
「ひゃっひゃっひゃ、面白い面白い、やはり『トレーナー』のポケモンは他とは違うな!
 連れて帰れないのが残念だが、まあ、良しとしよう。 いやまったく、いいモノが見られたわ。」
「オイ、プルート……まさか、アンタの興味のためにアタシの部下を傷つけたんじゃないだろうな……?」
「おお怖い怖い。 その怒りの瞳、まさに軍神マーズのようだわい。
 それじゃあ、戦火に焼かれる前に退散するとするかねえ。」


睨みつけるようなマーズの視線と、プルートと呼ばれた男の下卑た笑いから解放されると、プラチナは再び腰が抜けてその場に座り込んだ。
一戦終えて息の上がったハートが右足に、戦わせた覚えもないのに何故か傷だらけのキングが左足にそっと寄り添う。
プラチナは2匹を抱えると、心の底から大きく息を吐いた。
「こ、怖かったぁ……」
「きゅぴっ」
いくらか羽毛の抜け落ちた短い羽根でキングはプラチナのわき腹を叩く。
一気に力の抜けたプラチナは冷たい床の上にころんと横になった。
腕を抱きしめるとひんやり冷たくて、ほんのり温かい。
するりと腕を抜け出したハートがプラチナのまぶたにキスを落とすと、部屋の隅からうめき声が聞こえてプラチナは起き上がった。
「……うっ……」
「ジュンちゃん! 大丈夫?」
「ぴ」
キングを降ろして駆け寄ると、パールは後頭部を押さえて顔をしかめながら、ぼんやりと目を開いた。
「……ヒカリ?」
自分の名を呼ばれ、プラチナはゆっくりとうなずく。
うまく声が出なくて、壁に背をつけているパールの手に自分の手を添える。

「きゅぴぴ、ぴきゅきゅぴ?」
「ん、ポッチャマ……? ずいぶんやられたな。」
「それが、モンスターボールから出たときにはこの状態だったの。 ポケモンセンターからここまで1回も出してないはずなんだけど……」
「あ〜」と、気のない返事のようなものをすると、パールはかゆいのか後ろ頭をガシガシかいて顔をしかめた。
「もしかして、自分でやったのか? 『げきりゅう』でワザの威力を上げるために……」
「ぴきゅぴ。」
返事かどうかもわからない鳴き声をキングがあげると、パールにしては珍しく大きなため息を吐きながら片手で顔を覆う。
「……情けねえ。」
「?」
意味が解らず、プラチナは首を傾げた。
少し考えて、あっと軽く顔を上げる。 大事なことを忘れていた。
「とにかく! 発電所の人にガラスを壊したこと謝らないと!
 その後病院ね、ジュンちゃん20分近く目ェ覚まさなかったのよ?」
「あ、あぁ……うん、そうだな……」





「……まあ、精密検査しても何もなかったから良かったようなものの、ホンット怖かったぁ。」
話を聞いているうちに昼になってしまい、昼食の準備をしながらマイは軽くうなずいた。
「よく、旅を続ける気になったのね。」
「うん。 まあ、戻ろうにもコトブキシティがまだ安全かどうかわからないっていうのもあったしね。
 その後もしばらく、肝が冷えっぱなしだったわ〜……」
「それは……確かに。」
トラウマとか、また襲われる心配などもあるのだろう。
紅茶を入れながらマイはプラチナの言葉を肯定する。
「……ガラス代請求されるんじゃないかって。」
「そっち……?」
小さな手から滑り落ちたポーションミルクが草の上を転がる。
呆れるマイをよそに、プラチナはキラキラと光る海面を見つめながら大きなあくびをひとつした。


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