「それじゃ、ズルッグ! まずはスピードを出すために助走をつけよう!」
開かれたドームの屋根にまぶしそうに顔をしかめるズルッグに向かい、トウヤは心持ちワクワクした表情でそう切り出した。
ズルッグはぶすっとした顔でそっぽを向いていたが、キラキラした期待に満ちた眼差しをチラリと横目で見ると「見るんじゃなかった……」という顔をしてしぶしぶ歩き出す。
ばっちこいと受け止め態勢で待ち構えるフタチマルに向かって走ると、ズルッグは丁寧に植えられた芝生を蹴って飛び上がった。
「今だズルッグ、体を半回転!!」
「ぐ!?」
身動きの取れない空中で思いも寄らぬことを言われ、ズルッグの動きが止まる。
そのままバランスを崩し、ズルッグは身構えていたフタチマルもろとも、芝生の上をもんどりうった。

「だ、大丈夫!?」
トウヤの口がぽかんと開き、一拍置いて慌てて駆け寄る。
トウヤが到達するよりも前にズルッグは腰をさすって立ち上がると、脱げかけた自分の皮をぐいっと引っ張ってトウヤの方へと突進してきた。
フタチマルはといえば、ぶつかったときにホタチが片方どこかに飛んでいったらしく、必死に芝生の上を這いずり回っている。
「そっか、ズルッグは鳥ポケモンじゃないし、空中に飛んでから体を回転させるのは無理かぁ……
 ……って、いた、いたい……! ズルッグ、スネはやめて、スネは!」
怒りに任せてげしげしと蹴りつけるズルッグから逃げ回りながら、トウヤは次の策を考える。
昨日見たコジョフーも、ズルッグとほとんど変わらない大きさの2本足のポケモンだった。 そのコジョフーに出来たんだから、ズルッグに出来ないことはないはずだ。
なんとかズルッグで昨日の再現を出来ないものかと色々思案をめぐらせながらトウヤが芝生の上を逃げ回っていると、ふと入り口近い扉の向こうにもはや見慣れた……見慣れてしまったものを見つけ、トウヤの足が止まった。
追いかけていたズルッグがトウヤの足にぶつかる。
顔を上げてトウヤの視線の先に目を向けると、そこにはポケモンの目から見ても不自然な銀色のフードがうろうろしていた。





笑い声と、楽しそうな悲鳴、愉快な音楽に金属同士がこすれあう音。
人でごったがえす日曜の遊園地、叫び声にも似た子供の歓声を聞きながらNはひとり、悠然と回る観覧車を見上げていた。
誰かの手から逃げ出した風船が踊るようにふらふらと雲の上へと昇っていく。
ぼんやりとした顔でそれを見つめながらポケットに入れた手に軽く力を入れたとき、不意に真後ろから腕を引かれ、Nは目を見開いた。
「N!」
驚いた顔をして振り返ると、服の袖を引いたトウヤがまぶしいほどまっすぐな眼差しでNのことを見つめていた。
「久しぶり! ……と、そうじゃなくって、大変なんだ、N!
 街にプラズマ団がいっぱいいるんだよ。 ポケモン持ってる人も持ってない人も、片っ端から絡まれてるんだ!」
「プラズマ団が?」
うん、とうなずくと、トウヤは難しい顔をして唇を1度噛んだ。
「ボクも戦ったんだけど、数が多くて……逃げ回ってたら、街の人がこっちだって。
 まだこっちには来てないみたいだけど、ここも危ないかもしれないし……えっと、だから、N、今のうちに逃げた方がいいよ。」
落ち着かない様子で視線をあっちへこっちへキョロキョロとやりながら、トウヤはNにそう、まくし立てた。
Nは1度街の方に目をやると、珍しく黙り込み、一拍置いてから帽子のツバに手を当てる。
「……プラズマ団だったら、ボクも見たよ。
 多分ボクの見た方が本体だ。 今叩けば、街にいる奴らも統制がとれなくなって引き上げるかもしれない。
 ついておいで、彼らは遊園地の奥にいたはずだよ。」
「う、うん。」

震えるミルホッグのボールを抱きしめながら、トウヤは先導するNの背中を追いかける。
あまりポケモンたちの体力も残っていない。 後ろを気にしてチラリと振り返ると、不意に足元を黒い何かが通り抜けた。
小さく悲鳴をあげ、トウヤは立ち止まる。
何事かと振り返ったNの目に映ったのは、もう何度か見た、背の高いポニーテールの少女の姿だった。
「どしたんだよ、深刻な顔して……」
「トウコちゃん……!」
半分泣きそうになりながら、トウヤは唇を振るわせる。
「だって、街に……プラズマ団が……! 早く助けないとみんなのポケモンが、でも、もうフタチマルとイシズマイの体力ないし……!」
もはや意味のつながらない言葉を注意深く聞くと、トウコは後ろのNに目をやってから、トウヤの帽子の額に指を突いた。
「ジェットコースター。」
「え?」
「ジェットコースター行け、トウヤ。
 オマエが背中追っかけてたってことは、この兄さんが何か知ってんだろ?
 そっちはアタシがやっとくから、オマエはジェットコースターに向かえ。」
あまりに強いトウコの口調に、トウヤは訳も分からないままうなずいた。
傷ついたポケモンたちを抱え走るトウヤの背中を見送ると、さて、と、一呼吸置いてトウコはNの方へと向き直る。
長く豊かなポニーテールが揺れると、Nはうっすらと顔に笑みを浮かべた。


「じゃ、行きますか。 なんだかしらないけど案内頼むぜ、イケメンさんよ。」
「また会えたね、こんなところで会うなんて驚いたよ。」
「どの口がそー言うか? オマエ、シッポウからずーっっとアタシのことつけ回してたろ。
 さっさと行くぞ、急ぐ話なんだろ?」
「そうだね。 それじゃあ……あれに乗って探さないか?」
そう言うと、Nは空を覆うようにそびえ立つ大きな遊具を指差した。
「観覧車?」
「遊園地の奥にプラズマ団が逃げたんだ。 この人ごみじゃ普通に探していたら効率が悪い、上から探そう。」
こすれあうような人の波を見つめると、トウコは目を細め小さくうなずいた。
まるで迷子でも捜すかのような目つきで人ごみの中を突っ切ると、トウコとNは5分待ちと書かれた看板の下に走る。
階段を上がりながらトウコが振り返ると、Nは所在なさげに帽子のツバを弄んでいた。
「……オマエ、トウヤに似てんな。」
「そう?」
黒いキャップのツバを引き下げると、Nは間近まで迫る高い建造物を見上げ息を吸い込んだ。
「ボクは観覧車が大好きなんだ。
 あの円運動……力学……美しい数式の集まり……」
観覧車に辿り着くと、2人は並んでいたカップルたちを追い越して小さな箱の中へ滑り込んだ。
罵声を浴びせる男を尻目に、密室はどんどん上昇していく。
乗り場が見えなくなった頃、Nは小さく息を吐いてプラスチックの硬いイスに腰掛けた。
頬杖をつき、睨むような目つきで見下ろしているトウコを陰りのある瞳で見つめ返す。


「もういいよ、ニンゲンのフリしなくても。」

く、と眉の潜んだトウコに視線を向けたまま、Nは小さく微笑む。
まっすぐな瞳を蔑むような冷たい視線で見返すと、トウコはくるりと1回転し、小さなゾロアへと姿を変えた。
ゾロアがトウコに化けていた、と言った方が正しいのか。 小さな足でイスの上に着地すると、ゾロアは睨むような目つきでNのことを見つめ返す。
「……最初にいっておくよ、ボクがプラズマ団の王様。
 ゲーチスに請われ、一緒にポケモンを救うんだよ。
 キミがなぜ人間のフリをするのか今のボクにはわからない。 だけど、プラズマ団はいつか……いや、近い将来必ずポケモンと人が切り離された世界を作り出す。
 だから、心配しなくてもいい、ボクはキミの味方だ。 ボクはプラズマ団と共に誰も傷つくことのない世界を」
「ぐっちゃぐちゃとまぁ……よく喋んな、オマエ。」
黒い毛並みを振り、トウコは再び背の高い女の子の姿へと戻る。
Nの対面であぐらをかく彼女のかたわらには、同じゾロアがちょこんと座った。
窓のアクリルにどっしりと肘を置くと、トウコはもう片方の手で驚いた顔のNを指差す。
「ナニガシ、色々と言いたいこともあんだろうからとりあえずは聞いてやるよ。
 けど、観覧車がてっぺん過ぎるまでだ。 それ以上喋ろうとすんなら、無理矢理にでも黙ってもらうからな。」
「キミは面白いことを言うね。 それじゃあこのゴンドラが円の真上を通り過ぎるまで約3分41秒、好きに喋らせてもらおうかな。」
イスの上で足を組み直すと、トウコはぷいとそっぽを向いた。
窓の下ではいよいよ遊園地へと入り込んできたプラズマ団たちが、落としたアイスに涙する女の子を押しのけて走り回っている。
「プラズマ団たちが探し回っているのはボクだ。 キミも知っているだろう? シッポウでキミに興味を持ち、プラズマ団を抜け出して君の事を追いかけた。
 トウコチャン、キミがなぜポケモンでありながら人のフリをし、トレーナーとして生きているのか不思議でならなかった。
 ボクの結論から言えば、恐らくキミはそうして生きるしかなかったのだろう。
 今、この世界に野生のゾロアはいない。 ……ゾロアたちの住む森は人間の手によって滅ぼされてしまった。
 ゾロアとして生きていこうとすれば必ず、人間の手にかかって捕まってしまう。 だから、キミは人間として生きていくしかなかったんだろう。」
トウコの隣で、ゾロアが小さくあくびをした。
それを視界の端に入れても、Nは小さく微笑んだだけだ。
「そう……この世界はポケモンに優しくない。
 ポケモンたちが静かに暮らしていた森も、かつてポケモンと人が協力して建造し栄華を極めた古代都市も、結局は人の起こした争いによって跡形もなく滅びてしまった。
 ここに来るまでの間、ポケモンと仲良くしている人間を見なかったわけじゃない。
 だけど、人間は独りよがりで嘘をつく生き物だ。 ボクは、そうやって傷つけられたポケモンたちもたくさん見てきた。
 人とポケモンは……離れて生きるべきなんだ。」

トウコは外に目を向けていたし、Nはうつむいたままだったが彼の表情が明るくないだろうことは彼女にも推察できた。
観覧車がてっぺんに近づく。 ふ、と、息を吸うと、Nはトウコに顔を向け、真剣な顔をして彼女に切り出した。
「トウヤはポケモンに優しい人間だ。 キミが弟と呼んで可愛がるのも納得できる。
 だけど、彼はキミのことを本物の姉だと思い込んでいるよ。 ボクが見る限りでもキミの発する言葉を理解出来ているのはボクと彼だけだというのに。
 いつまで続けるつもりなのかな……このままだと彼は、心に深い傷を負うことになる。」
「目が覚めるまで……かな。」
それまでずっと黙っていたトウコがぽつりと呟いた。
ゴンドラを支える鉄柱が、窓からの景色を垂直に切り取る。
Nが何か言おうと顔を上げたとき、観覧車のてっぺんを飾るゴンドラが小さく揺れた。


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