まるで、一刻前の騒ぎなどなかったかのように、リュウラセンの塔のふもとには風のうなり声だけが響いていた。
ベルが出したポカブの進化形、エンブオーの首元で燃える炎が時折チラチラと降ってくる雪ではぜてパチパチと音を上げる。
エンブオーの腕の中に隠れながら、ベルはずっと塔の上の方を見上げていた。
「……アララギ博士、リュウラセンの塔ってなんですか?」
肩を抱こうとして拒否さえたアララギパパは、ようやくかけられた声にややヤケじみた声で笑い声をあげる。
「ふぁはは! そうだよな、気になるよな。
リュウラセンの塔は……イッシュの国が出来る前の太古の昔からそびえたち、塔の最上階では伝説のドラゴンポケモンが理想を追求する人間が現れるのを待っていた……そう伝わっておる。」
「伝説のドラゴンポケモン……って、もしかして、絵本とかでよく見る、黒いドラゴンのことですか?」
「そう……イッシュの建国伝説にも出てくる、双子の英雄とともに戦ったと伝えられるドラゴンポケモン……
塔の中に入っていった3人……無事に帰ってくればいいのだが……」
アゴから生えた氷柱をもぎとると、ツンベアーは階段の下をふさぐプラズマ団のポケモンに目いっぱいの力を込めてそれを投げつけた。
「『つららばり』!」
女性の団員から甲高い悲鳴があがる。 チェレンはケンホロウに命じると、彼女の身体を持ち上げて部屋の隅へと追いやった。
「ちょっと、ヒキョウよ! 薄汚いポケモントレーナーのくせに! ここから出しなさいよ、ヒキョウモノ!!」
倒壊した柱に囲まれ、身動きの取れないプラズマ団はキィキィと甲高い声でチェレンへと怒鳴りかける。
はぁ、と小さくため息をつくと、チェレンは迫ってきた『ひっさつまえば』を『ツバメがえし』で受け止めた。
そのままミルホッグを押し返すと、階下から近づいてくるひづめの音にチェレンは顔を向ける。
「チェレン!」
「トウヤ。 ここはいいから、キミは先に……」
「いや……少年、キミも行け! この程度の相手ならば……私1人で充分!」
指示を出していたチェレンの腕を引き、トウヤの乗ったメブキジカの方へと投げるとハチクはツンベアーをボールへと戻し、新たにフリージオを呼び出す。
ハチクが声をあげると、フリージオから放たれた冷気に小柄なポケモンたちは凍えて動けなくなった。
息を呑んで見つめるチェレンの頬に、冷たいメブキジカの鼻先が当てられる。
「行こう、チェレン。」
「……あ、あぁ。」
細い階段にトウヤはメブキジカを使う事を諦め、凍りかけた床の上へと足を下ろす。
ゾロアが階段の上へと向かってうなり声をあげた。
トウヤが頂上へと続く階段へと視線を向けると、何かが破裂したような音を立てて、トウヤの背ほどもある岩が転がり落ちてくる。
「……今頃、彼らはボクを追ってきているのだろうか?」
Nがつぶやくと、カチカチカチ、と、歯車の回る機械的な音が鳴る。
塔の中は不気味なほどの静寂に包まれていた。 ひそやかな足音、ギギアルの鳴らす歯車、それに、後ろからついてくる七賢人の1人、ジャロのマントを引きずる音だけが耳に残る。
「ご安心を。 賊どもは、この身に誓って成敗いたします。」
「心配などしていないさ。 たとえ向かってきたとしても、このボクの身に危害が及ぶ可能性はゼロに等しい。
それよりも、伝説に立ち会える記念すべき瞬間にキミたちが要らぬ騒ぎを起こして興をそがれる方が心配だね。」
傷だらけの唇から発せられた言葉にジャロは押し黙った。
冷たい目をしたNの前に、ポケモンが立ちはだかる。
杖を構えたジャロをさえぎって、Nはポケモンの前へとポケモンの前へと進み出た。
「ゴビットだ。 古代人からここを守るよう命じられ、そのまま放置されたのだろう。
……かわいそうに。 人間に作られたばかりにどこへも行くことが出来ず、主死してなお、このリュウラセンの塔にしばりつけられる……
ゴビット、キミにも意思はあるのだろう。 キミの魂……すぐにでも解放してあげたいよ。」
石と石とがずれる低い音をあげ、ゴーレムはNへと襲い掛かる。
Nとゴルーグの間に入ったギギアルが、高い音を立てながらちびギアを発射してゴビットへと攻撃した。
あっさりと弾かれ、壁に穴を開けて動けなくなったゴビットを横目に、Nは悲しそうな顔をして歩き出す。
「ごめんね。 ボクは、人間によってとらえられたポケモンたちを解放しなくてはいけないんだ。」
電池の切れかけたおもちゃのように時折ピクピクと動くゴビットに向かい、小さな声をかけると、Nは上階へと続く長い階段に目を向けた。
雷の前触れのような、ピリピリとした空気が伝わってくる。
「……もうすぐだ。」
帽子のツバを上げるNに、ジャロはマントのスソを正し、高くはない背をさらに低くする。
「キミはここで待っていたまえ。 そのゴビットのこともお願いしておくよ。」
「は……」
深く一礼すると、ジャロはその場にひざまずいた。
光の差す高い階段を、Nは1段ずつ、ゆっくりと上っていく。
塔全体を揺るがす一際大きな揺れに、トウヤとチェレンは思わず足を止めた。
「……今、ポケモンの鳴き声みたいなの聞こえなかったか?」
「うん…… 『バリバリダー!!』って……」
トウヤは上を見上げる。 天井に張り付いたクモの巣から、パラパラと音を立てて細かいホコリが降ってきていた。
「メンドーなことになってなきゃいいけど……!」
そう言ってチェレンはトウヤ目掛けて飛んできた『どろかけ』をヒヤッキーに打ち落とさせる。
「チェレン、やっぱりボクも戦うよ。」
「ダメだ。 キミはプラズマ団の王のところまで体力を温存するんだ!
キミはジムリーダーを倒し、僕よりも先にバッジを7つ集めた……そうだろう?」
紛れもない真実に、トウヤはただ黙ってうなずく。
「Nを倒せる可能性が高いのは、間違いなくキミだ。
だから僕は、キミを戦わせることなくNのもとへと連れて行く。
辛いかもしれないけど……耐えてくれ。」
「う、うん……」
トウヤの足元にいるゾロアがイシシッと笑い声をあげた。
チェレンは隠れ家にしていた柱の影から飛び出すと、ジャローダの『グラスミキサー』で残った敵を一掃する。
トウヤが階段を駆け上がると、目に見えてプラズマ団の数が減っていた。
窓から入り込む白雲に目の前がかすむ。 階段の下へと目を向けると、トウヤは未だバトルを続けるチェレンを呼ぶ。
「チェレン、早く!」
「……って、言ってもね。 こいつら、数が多くて……!」
加勢しようとトウヤがモンスターボールを手にするのを、チェレンは制止する。
飛んできた小石の先で皮膚が切れる。
舌打ちしてチェレンが別のモンスターボールを手にしたとき、思いも寄らない方向から飛んできた『ハイドロポンプ』がプラズマ団のポケモンへと命中した。
「『オーロラビーム』!」
チェレンの視線が動く。
ずっと下の階にいるものと思っていたハチクは、荒っぽい深呼吸をすると従えたフリージオに横目を向けた。
「ここは、私たちに任せてもらおうか。」
「……ジムリーダー! 下の階は?」
ハチクは鼻筋に流れた汗を拭うと、口元に薄く笑みを浮かべる。
「私1人では難しかっただろう。 ……だが、応援が来てな。」
「……応援?」
「まーろまろまろまろ!」
聞き覚えのある声に、トウヤの目が見開いた。
波打つようなカエルの声が、リュウラセンの塔の空気を揺さぶる。
「がーまがまがまがま!」
「オタマロさん! エリザベス!」
「……エリザベス?」
顔を輝かせて叫ぶトウヤに、チェレンが首をかしげる。
ハチクは薄く笑うと、動揺するプラズマ団の足元を氷の技で固めた。
「……そういうわけだ。 行け!」
「はい! 行こう、チェレン!」
エリザベスの上で尻尾を振るオタマロさんを1度だけ振り返ると、トウヤは事態が飲み込めていない様子のチェレンの手を引いて階段を駆け上がった。
「あれは一体……」
階段を上がり切ってなお疑問符を浮かべるチェレンの手を引いたまま、トウヤはさらに上の階へと続く階段を探す。
空気は乾き、ピリピリとした静電気が肌を刺激する。
かなり上階まできたせいだろうか、もうここには下の階ほど大量の下っ端は残っていなかった。
代わりに何か巨大なものになぎ倒されたような柱が、そこかしこに転がっている。
「……どーやって支えてんだよ、この部屋。」
舌打ちする音を聞きながら、トウヤは視界の端でわずかに動いた『なにか』に視線を向けた。
白くかすむ部屋の隅で、プラズマ団ではない『なにか』が小さく動き続けている。
まつげを上下させると、トウヤはモンスターボールを片手に未確認物体へと近寄った。
ぼんやりとした陰影を確かめると、トウヤは警戒を解いて駆け寄る。
「傷ついたポケモン……!」
近寄ってキャンキャンと鳴き声をあげるゾロアを追いかける形で、トウヤは床に転がるようにしている灰色の土偶のようなポケモンへと図鑑を向ける。
ゴビット、ゴーレムポケモン。 トウヤよりは大きくないものの、ずっしりとした体格と陶器のような頑丈な身体は、ちょっとやそっとの攻撃でやられるポケモンとは思えない。
ひんやりと汗ばむ手でポケモン図鑑を握り締めながら、トウヤはバッグの中から『げんきのかけら』を取り出した。
ゾロアの大きな耳がピクリと動く。
トウヤが気付いたとき、目の前にはチェレンと、見たことのないポケモンから攻撃を受けて倒れるジャローダの姿があった。
一瞬、事態が飲み込めずに固まるトウヤにもたれかかると、チェレンは流れた血が彼に降りかからないよう、服のソデで目の端を拭う。
「チェレン?」
「これぐらい平気さ。 だけど、プラズマ団がこんなにいるとはね……まったく、メンドーだな。」
汗ばんだ手の中にあるポケモン図鑑が、目の前にいるポケモンの名前を表示する。
トウヤの肩を掴むと、チェレンは起き上がって倒れたジャローダをモンスターボールへとしまった。
代わりのポケモンを呼び出すが、ここにトウヤを連れてくるまで戦い続けたポケモンたちは、どれも既にボロボロだ。
「無理だよ。」
「無理じゃない。」
「ボクが」
「キミは進むんだ。」
頑として譲らないチェレンに、トウヤが強引にでもポケモンを繰り出そうとしたとき、布が床を引きずるような音とともにわずかな老人の笑い声が聞こえてきた。
ゾロアが飛び出して、ジャローダを攻撃したクリムガンの前へと立ちふさがる。
「なんと、ここまで来るものがいようとは!
いよいよである。 N様が英雄になられる。
イッシュの新しい夜明け……お静かに願いたいものですな。」
「お前……幹部だな。」
低い声で言った後、チェレンは少し驚いたような顔をした。
押し殺した笑い声を響かせながら、声の主は茶色いマントを引きずりながらトウヤたちの方へと近づいてくる。
「世界は変わる……N様の手により、変えられるのだ。
お前たちに、その邪魔はさせぬぞ。 今、ここで……」
「トウヤッ!?」
甲高い叫び声とともに、クリムガンの長い尾が床を打った。
見開いたトウヤの目の前で、ゴツゴツとしたクリムガンの爪の先が止まっている。
空気のすれる音が聞こえると、傷だらけの腕でクリムガンを支えるポケモンに向かって、指示が飛ぶ。
「『バークアウト』ッ!!」
大きく息を吸い込むと、キツネのようなポケモンは黒い波動とともにその叫び声で部屋の中にただよう白い雲を吹き飛ばした。
指示の手を上げたままのチェレンの目が見開く。
ゾロアじゃない。 長いたてがみを1つにしばった黒いポケモンは甲高い鳴き声をあげると、押し返したクリムガンに向かって真っ赤な炎を吐き出した。
「早く行け、トウヤ!!」
「トウコちゃん?」
声の主を確かめる前に、トウヤはチェレンの手によって走らされる。
ようやく見つかった階段の上にトウヤを押し上げると、チェレンは体力も残り少ないレパルダスを構えさせ、プラズマ団の幹部を睨みつけた。
「……こっちこそ、邪魔はさせないよ。 幹部がここにいるってことは、Nはこの上なんだろう?」
振動が響く。 天井に貼りついていた石が落ち、床の上を跳ねた。
長いたてがみを1つに結んだポケモンがチェレンの前まで飛び、茶色いマントのプラズマ団を睨んでうなりをあげる。
チェレンはポケモン図鑑を開き、自分を守るようにするそのポケモンへと向けた。
「『ゾロアーク』……ずっとゾロアのフリをしてたのか。
……トウコの考えそうなことだ。」
チェレンが指先を動かすと、毛並みの荒れたレパルダスの瞳が怪しく光る。
「サポートは任せてくれ。 ……たとえ伝説のポケモンだろうと、キミの後ろには立たせない。」
かすみのかかるリュウラセンの塔の頂上は、強い風が吹き抜けてレースのような雲が前から後ろへと吹き流されていった。
割れた壁の向こうには、薄雲のかかった氷のような空がほのかに輝いている。
その真ん中を、光を呑み込むほどに漆黒なポケモンが覆っている。
Nは白い息を吐くトウヤに気付くと、嬉しそうに笑みを浮かべ振り返った。
「どう、トウヤ? 世界を導く英雄のもと、その姿をあらわし共に戦うポケモンの力強い姿は!」
舞い降りた漆黒のポケモンが床に足をつけると、ビリビリとした衝撃が全身に襲い掛かる。
低い咆哮が響き渡ると塔の上空を覆っていた雲が吹き飛び、ダイヤモンドのような太陽の光が目を刺す。
トウヤの膝はふるえ、奥歯からカチカチと音が鳴る。
「これからボクは、ゼクロムと共にポケモンリーグに向かい、チャンピオンを超える!
ポケモンを傷つけてしまうポケモン勝負は、それで最後。
ポケモンだけの世界……ようやく実現する。」
嬉しそうに語るNを見るとトウヤは、かじかんだ手でモンスターボールに触れた。
凍りついた指先から小さな球体が零れ落ちる。
「もしも……」
唇を結ぶと、Nはか細い声を出すトウヤの拳へと視線を移す。
「ハチクさんや、ポケモンだいすきクラブの会長も……
フウロさんも、ヤーコンさんも、カミツレさんも、アーティさんも、アロエさんとキダチさんも、サンヨウジムの人たちも……!
エンデくんも、ショウヘイさんも、サイコちゃんも、マリカおばさんも、シズコさんもコドウさんもミッキーもレイモンドもエドモンドもケンタも!
アララギパパも! アララギ博士も! チェレンも、ベルも……トウコちゃんだって……!!」
ぎゅっと1度、拳を強く握り締めるとトウヤは足元に転がったモンスターボールを取り上げ、ポケモンを呼び出した。
高い鳴き声を響かせるとダイケンキはアシガタナを握り締め、水の力で目の前にそびえたつ黒いポケモンへと切りかかる。
「やっぱりダメだ! みんなとみんなのポケモンを引き離すなんて、絶対にさせられない!」
「キミならそう言うと思っていたさ!
だけどね、トウヤ。 この世界に存在するのはキミが思っているような優しい人間だけじゃ……幸せなポケモンだけじゃないんだよ!」
Nが叫ぶと、辺りが一瞬薄暗くなった。
天地が逆さまになり、触れた覚えもない頬がじんと痺れる。
いつの間にか、トウヤは小さな泡を吐いて倒れるダイケンキの下敷きになっていた。
青かった毛並みは茶色く焼け、アシガタナの先には薄くヒビが入っている。
「人間は身勝手で……傲慢で……そして愚かだ。
可能性に溢れるポケモンたちを、自分たちの欲望のために捕らえ、自由すら与えず使役し、傷つけ、最後にはゴミのように捨てる。
そういうニンゲンたちがいる。
だから、ボクは、ニンゲンから、ポケモンを、解放しなくてはならない。
この意味が解るかい? トウヤ。」
トウヤはダイケンキの下から這い出ると、焼けただれた毛並みに『やけどなおし』を吹き付けてダイケンキをモンスターボールへと戻した。
右の耳がうまく聞こえない。
いつ見えなくなったのか、かすむ視界はそこにいるはずのNが笑っているのか泣いているのかの見分けもつけられない。
「ボクには、覚悟がある。」
薄れゆく意識の中で、誰かの叫び声を聞いた。
漆黒の色をしたゼクロムの身体から電気が流れ、トウヤの世界はスローモーションになる。
稲光は、まぶたの裏に焼きついていた。
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