「シャンデラ、シャンデラッ! しっかりしてください!」
細かい金属同士がぶつかり合うカラカラという音をたて、カンテラにも似た黒いポケモンは床の上へと転がっていた。
黒い服を着たスレンダーな女性はずっと握り締めていたペンを投げ捨てると、シャンデラと呼んだそのポケモンへと駆け寄り覆いかぶさるように抱きついた。
床を蹴り飛ばすようにして挑戦者の足音が遠ざかっていく。
チラチラと消えそうに燃える炎に肘が触れそうになったとき、駆け寄ってきた男は大きな声をあげ、彼女の身体を引き上げた。
「シキミ、何してる! 火傷したいのか!?」
ポン、と小さな音をたててモンスターボールの中へと戻ったシャンデラを見ると、シキミと呼ばれた女性は笑ったような顔をして自分の体を見下ろした。
「ア……ハハ、そんなの、とっくに……ですよ。」
薄白い肌は赤く焼け、ところどころに水泡が浮かんでいる。
男は怒ったような、呆れたような、複雑な表情を顔に浮かべていた。
同じポケモントレーナーとして、四天王として、気持ちは分からないわけではない。 しかし、そんなことをしたところで、ポケモンに余計な気を遣わせるだけだというのに。
羽交い絞めにしていた腕を解くと、シキミはペンよりも先にシャンデラのボールを拾いに行った。
それと同時に、巨大なビルを解体するときのような、鼓膜を叩く轟音が聞こえてくる。
「…… …… ……
その者、瞳に暗き炎を湛え、ただ1つの正義を成すため自分以外の全てを拒む……」
シキミはどちらともつかない方向に視線を向けると、何かの呪文を唱えるかのように唇を動かす。
水泡の浮いた指先がペンへと向かった。 険しい表情をした男はギッと音を鳴らして拳を握り締めると、彼女に背を向けてずっしりとした足取りで歩き出す。
「感傷に浸っている暇はない。 今、俺たちに出来ることは、まだ動けそうなポケモンの調整をすることだ。」
「わかってます。 万が一のときでもここを守れるようにするため……ですよね? レンブさん。」
「そうだ。 俺たちの使命はチャンピオンを補佐すること。
たとえ負けたとて、それは変わらぬ。 ここで折れている暇など、ないんだ!」
幼い頃、チェレンから聞かされた話の記憶からポケモンリーグのことはある程度知っているつもりだったが、実際来てみるとその広さにトウヤは圧倒されていた。
ヒウンシティとはまた違う、それでも負けぬほど大きな建物が立ち並び、その間を繋ぐ道は先が見えない。
どちらに向かうべきかもわからず、軽い足音を鳴らしてまっすぐに北へと進んでいくと、道はやがて広くなり、天を貫くほど巨大な女神像の前へと辿り着いた。
道はさらにそこから北西、北東、南西、南東の4方向へと続いている。
道の先には、女神像よりもさらに巨大な建造物がそびえていた。
ほんのわずか、空気がふるえる。
誰か戦っているのだろうか、耳を澄ませ、音のした北西へと顔を向けたとき、背後に人の気配を感じてトウヤは振り返った。
「どなた……?」
全く足音がしなかった。 リボンのついた金色の髪をふわふわと揺らしながら、女の人は視線をトウヤへ向ける。
「アナタ……挑戦者ね?」
「えっと、チャンピオンのアデクさんに会いたいんですけど、どっちに行けば……?」
「チャンピオンなら、この山の頂にあるフィールドで挑戦者を待ち構えているわ。
だけど、頂へは四天王の許しがなければ行かれない。 許しを得るには、四天王とのバトルを勝ち抜かなければならない。」
「四天王……」
やはりチェレンから聞いた覚えのあるフレーズにトウヤの唇が動くと、女の人は口許を押さえ、クスクスと笑い出した。
「そう……戦ってもいいのよ。 アナタも『そう』でしょう?
すてきな時間が始まりそうで、なんだかワクワクしてきちゃう。」
いつの間にか周りの景色が変わっている。 トウヤは心底驚いて目を丸くした。
緑色のスライム状の膜に包まれたポケモンが浮かび上がり、超能力と思わしき力で周りの小石を巻き上げる。
「さ、ポケモンをお出しなさいな。 楽しい楽しいポケモンバトルを始めましょう!」
突然のことにトウヤは戸惑っていたが、ふわふわと浮かんだまま待ち構えているランクルスを見ると唾を飲み込んでモンスターボールを投げた。
飛び出してきたメブキジカは吹き荒れる念力の嵐の中を駆け抜けると、両足のひづめで地面を蹴って飛び上がった。
「メブキジカ、『やどりぎのタネ』!!」
高くいななくと、メブキジカは白く覆われた枝のようなツノから『やどりぎのタネ』を飛ばし、ランクルスへと植え付ける。
見たところ相手の耐久力は高そうだし、即効性はないが、じわじわと相手から体力を奪い取るタネは効果があるはず。 そう目論んでの攻撃だったが、相手の女性は動揺する様子1つ見せず、にっこりと微笑むとスライムに包まれたランクルスへとしなやかな指先を向けた。
「なにも知らないのね。」
え、と、小さく声をあげた瞬間、ゼリー状の液体の中に浮かんだ『やどりぎのタネ』はぐにゃりとねじれ、右手の形になったスライムに握りつぶされた。
その右手がしなやかに向けられると、メブキジカの身体が浮かび上がり目に見えない押しつぶされそうな力を叩きつけられる。
一瞬、攻撃したのがランクルスなのかトレーナーの女性なのか判断つかず、トウヤは目を瞬いた。
足元まで延びた長い長い金髪をゆらゆらと揺らしながら、女性はクスクスと笑い、桜色をした唇に右手を添える。
「『マジックガード』はアタクシのランクルスを守る柔らかなヨロイ……本体に届かない攻撃なら、なかったも同じコト。
自己紹介が遅れましたわ。 アタクシはカトレア、イッシュ四天王のカトレア。 心躍るバトルを求め、はるばるイッシュまで来ましたの。
ねえ? だから……」
カトレアの瞳が妖しく光るのと同時にメブキジカは走り出した。
「アクビが出ちゃうような退屈な勝負だけは勘弁、ね……」
投げるように放たれたエネルギーの塊を飛び上がってかわすと、メブキジカは相手の懐に入り込みランクルスを包むゼリー状の膜にツノを突き刺した。
外れたランクルスの攻撃が大理石の床を粉々に砕いたのを見て、トウヤはぞっとした。
恐らく『かくとう』タイプの攻撃だ。 早めに決着をつけなければ、メブキジカではひとたまりもない。
「メブキジカ、『ウッドホーン』!」
指示が出ると、突き刺さったままのメブキジカのツノが淡く緑色に光った。
ランクルスの表情が凍り、振り回した『腕』に弾かれてメブキジカの大きな体が飛ぶ。
音をあげてメブキジカが床の上へと着地すると、トウヤは帽子のツバを深く引き下げた。
「走れ、メブキジカ!」
「今度は外さない。 ランクルス、『きあいだま』よ。」
細い指先が上がるとランクルスは半透明な『腕』を持ち上げ、エネルギーの塊を収束する。
ギリギリまで引きつける気だ。 ならばと帽子の奥で視線を強くすると、トウヤは真っ直ぐに伸ばした指先をランクルスへと向けた。
「『メガホーン』!」
自分に向けて放たれた『きあいだま』ごとメブキジカは待ち構えていたランクルスを大きなツノで弾き飛ばした。
眠そうに伏せられていたカトレアの目が見開き、高く打ちあがったランクルスへと向けられる。
大きな音をあげてランクルスが床へと打ちつけられると、視線を向けてきたメブキジカにトウヤはサムズアップを贈った。
少し驚いたように半分開いた口に当てられてた手を、カトレアは白い床の上に転がったモンスターボールへと向けた。
ふわりと音もなく浮き上がったモンスターボールは吸い込まれるように彼女の手の中へと収まり、夜の帳が落ちるように静かにその光を消す。
どこからともなく現れた別のモンスターボールを手にしながら、カトレアはクスクスと笑っていた。
「……今日はとてもいい日なのね。 こんなに心躍るバトルばかり続けていたら、アタクシおかしくなってしまいそう。」
「ボクの前にも挑戦者が来たんですね?」
「あら、お知り合い? ……彼、とっても強かったわ。
全てを犠牲にしても自分の信念を貫く強さ……好きよ、そういうの。」
透明な袖口にまとわりついていたレースがふわりと揺れる。
浮き上がったモンスターボールからは体中に古代の文様が描かれた一つ目の大きな鳥が召喚される。
「お行きなさい、シンボラー。」
呼び出されたシンボラーは櫛の歯のような翼をはためかせると、メブキジカの跳躍も届かぬほど高いところまで飛び上がった。
攻撃の気配がする。 トウヤは見上げた目を細めるとひゅっと冷たい空気を吸い込んだ。
「『エアスラッシュ』。」
「戻れ、メブキジカ!」
打ち下ろされた空気の刃を交代したイワパレスが受け止める。
「イワパレス、『がんせきほ……!」
「シンボラー。」
風もないのにカトレアの髪がなびき、その瞬間、砕けて跳ね上がった床の欠片がイワパレスに襲い掛かった。
とっさにハサミを交差させたイワパレスの手元からまとまりきらなかった岩が零れ落ち、床の上でガラガラと音を立てる。
「シンボラー。」
カトレアの唇が動いたのを見て、トウヤは両腕を交差させた。
トウヤの足元から水柱が打ち上がる。
呼び出されたダイケンキは打ち下ろされた『エアスラッシュ』を弾きながら、自らが繰り出す水流でシンボラーよりも高いところまで舞い上がった。
「ダイケンキ、『アクアジェット』!」
ヨロイから抜かれたアシガタナがシンボラーを床の上へと叩きつける。
重力にしたがって落ちてきたダイケンキにブロンドの眉を潜めると、カトレアは長い髪を揺らし、細く折れそうな指先をシンボラーへと向けた。
「『サイコキネシス』!」
「ダイケンキ!」
持ち上げられて叩きつけられそうになる寸前、ダイケンキはアシガタナを床の上へと突き刺した。
激しい念流に後ろ足が宙に浮く。
上げられたままの指先がふるえ、息切れを起こしたカトレアの目から光が消えたとき、ようやく態勢を立て直したダイケンキにトウヤは指示を出した。
「ダイケンキ、『ふぶき』!」
ハアッと白い息を吐き出すと、ダイケンキは動きの鈍ったシンボラーに凍りつくほどの冷気を叩きつけた。
氷の粒がついた身体は翼の先から固まり、ごろりと床の上に転がった鳥のようなポケモンはそのままモンスターボールへと姿を変え、動かなくなる。
霧散した冷気が広がり凍りついた空間の中で、荒れた息遣いが静かにこだましていた。
やがて吐息はクスクスという笑い声へと変わり、響き渡る笑い声は、部屋中へと広がった。
「……今日はとてもいい日なのね。 こんなに心躍るバトルばかり続けていたら、アタクシおかしくなってしまいそう。」
「あの……?」
冷え切ったモンスターボールを拾い上げたカトレアにトウヤは声をかけようとした。
様子がおかしい。 まるで生き物のようにざわざわと動く髪。
どこを見ているのか分からない、見開いた瞳で振り向かれると、トウヤの肩は跳ねた。
「……今日はとてもいい日なのね。 こんなに心躍るバトルばかり続けていたら、アタクシおかしくなってしまいそう。」
閉め切られた部屋の中のはずなのに強い風が吹いて、トウヤは思わず帽子を押さえる。
クスクス、クスクス。
カトレアの笑い声が響く。
「……今日はとてもいい日なのね。」
「……今日はとてもいい日」
「……今日は」
「……今日はとても」
声が止まった次の瞬間、すさまじく吹き荒ぶ嵐にダイケンキが悲鳴をあげた。
風船のようにふわりと浮き上がったモンスターボールからピンク色のポケモンが飛び出す。
「ムシャーナ!」
ボールから飛び出したポケモンはピンク色に光るエネルギーを額の穴に集中させる。
攻撃させまいとダイケンキは飛び出した。 トウヤはまつげの飛び込みそうな目を必死で開きながら口の奥でタイミングを計りダイケンキへと指先を向ける。
「『アクアテール』!」
ムシャーナの目の前にアシガタナを突き立てると、ダイケンキはそれを支点に、思い切り振り回した尻尾をムシャーナの額へと叩きつけた。
ピンク色をしたムシャーナのエネルギーが飛散する。
その状態に慌てる様子もなくクスクスと口元に笑みを浮かべると、カトレアは指で小さな弧を描いて静かな声を響かせた。
「『さいみんじゅつ』。」
霧となったピンク色のエネルギーに包み込まれると、ダイケンキはミルク色をした床の上に膝をついた。
腕からも力が抜け、必死で起き上がろうとするが、まぶたすら開けていられない様子だ。
クスクス笑いが響く。 カトレアがもう1度指先で弧を描くと、組み合わさった曲線はハートの形になった。
「『ゆめくい』。」
「ッ! 戻れ、ダイケンキ!」
トウヤが叫ぶのと同時にボールの中からはズルズキンが飛び出し、舌打ちしながら『ねむり』で動けずにいたダイケンキを黄色い足で蹴り飛ばした。
ボールが床の上を跳ね、天井からぶら下がったカーテンにぶつかって停止する。
エネルギーを吸い込もうとするムシャーナの攻撃を床に刺さったままのアシガタナにつかまって耐えると、ズルズキンは相手を睨みつけた。
床の上に突き立ったアシガタナを引き抜いてトウヤの方に投げると、ズルズキンはチッと舌打ちした。
笑い声は響く。 耳にまとわりつくほどに。
攻撃的な視線でズルズキンを見つめるカトレアを帽子の奥から観察すると、トウヤはツバを少しだけ引き上げ、声を張り上げる。
「ズルズキン、『しっぺがえし』!」
「お行きなさい、ゴチルゼル!」
カトレアのもとからモンスターボールが飛び出した瞬間、先ほど起こったことの再現が起きた。
飛び出してきた黒いポケモンがズルズキンの攻撃を受け止め、鈍足のムシャーナを交代させる。
違うのは、ゴチルゼルがダメージを受けたことだった。
ズルズキンのパワーに押し負けて吹き飛ばされたゴチルゼルはビロードのカーテンにぶつかると、空中で動きを止めたまま両腕を高く持ち上げる。
「『じゅうまん……」
指示の途中でピクリとまぶたを揺らすと、ゴチルゼルは出しかけていた『10まんボルト』を明後日の方角へと向けて発射させた。
真っ白なカトレアの眉間に深いシワが寄る。
ゴチルゼルが技を打ち出した方向を睨みつけると、右手を何もない空中へと向けた。
「だれ? 楽しい時間を邪魔するのは!」
「え、え?」
まるで何もないところに話し掛けるカトレアにトウヤは少なからず混乱していた。
油断を誘うための演技かとも考えたが、油断どころか不意打ちする気満々のズルズキンを押さえていなければノーリスクでダメージを与えられてしまう状況だ。
カトレアが睨む方向にトウヤも目を向けると、白い床と壁が薄明かりを反射する部屋の中に、うっすらとした光とぼんやりとした闇が浮かび上がった。
実体があるようには見えない。 ポケモンかと思って図鑑を向けてみたが、反応もしない。
「……そう。 そっちがそのつもりなら、アタクシが引きずり出してあげるわ。」
その言葉の意味を理解する間もなく、トウヤの髪は浮かび上がった。
慌てて帽子を押さえると身を切るような風が足元を吹きぬけ、立っていることもままならず、うずくまる。
口から何かを吐き出したズルズキンに守られるようにしてカトレアの『攻撃』先に目を向けると、薄暗い部屋の中心に星のようなきらめきが浮かび上がっていた。
目を丸くして固まるトウヤの視線の先で、それはぐにゃぐにゃとシャボンを入れた水面のようにうねった。
万華鏡を覗き込むかのごとく、ぐにゃぐにゃと歪んだ景色は星空から炎へ、砂漠から人の住むところへと次々と形を変えてゆく。
カトレアは引きつった口元に笑みを浮かべると、様々な景色を映す歪みへと向かって細い2本の腕を突き出した。
「超能力を使えるのはポケモンだけの特権ではなくってよ!」
耳をつんざくような轟音が聞こえたかと思った瞬間、ズルズキンが床を蹴り、歪みから飛んできた何かを弾き飛ばした。
『何か』は音を立てて床を跳ねた。 風に涙が全てさらわれそうな目をなんとかこじ開けて音のした方向に視線を向けると、部屋の壁にかけられたビロードのカーテンのスソに、なにか小さなものが絡まりついている。
「モンスターボール……?」
そうつぶやいた瞬間、甲高い悲鳴とともに風が止んだ。
え、と、小さく声をあげてトウヤが振り向くと、散らばった……恐らくは彼女のものであろうモンスターボールに囲まれて、カトレアが白い顔を凍りつかせて倒れている。
「え……え?」
何が起きたか尋ねたくて視線を向けても、ズルズキンは舌打ちするだけで何も教えてくれそうにはない。
分かるのは、今が緊急事態だということだけだ。 慌てて駆け寄ると、トウヤは床に散らばったカトレアの長い髪を掻き分け、彼女の呼吸を確かめた。
ひとまず息はありそうだ。
チェレンかハンサムに連絡しようとライブキャスターのボタンに指をかけたとき、ズルズキンがトウヤの腕を叩き、部屋の片隅へと視線を向けさせた。
太い眉の下から殺気のこもった視線を放つ男に、トウヤの瞳は瞬いた。
あまり、穏やかな雰囲気ではなさそうだ。 カトレアから視線を離して立ち上がると、トウヤはバッグのベルトを直しながら相手を見つめ返す。
「あの、どちら様ですか?」
「……私は、四天王が一角。 格闘使いのレンブ!」
そう言うと男はちぎるようにモンスターボールを放ち、トウヤの前へとポケモンを呼び出した。
まだ戦うなんて言っていないのに。 少々面食らいながらもトウヤは風で大きく曲がった帽子を直し、バッグからポケモン図鑑を取り出した。
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