「それが、キミの答えなのか……トウヤ?」
鼻の下から赤い血を一筋たらしたまま、絨毯の上に倒れこんだトウヤを見て、Nは短くそう言って捨てた。
乱れた茶色い髪の下からトウヤはNのことを見る。 言葉はない。
Nがトウヤの肩を蹴ると小さな体はコロコロと転がった。
傍らにいるゲーチスが薄く息だけで笑う。 そちらは片眼鏡のせいで表情は見えなかったが。
「……どうやら、N様の見込み違いだったようですね。
モンスターボールを破壊された末、自分のポケモンには逃げられ、伝説のポケモンを目覚めさせることもかなわず……
そんな人間がたった独りでここまでやってきたことは賞賛に値しますが……もういいでしょう。
さあ、N様……とどめを。」
瞬間、Nの口が止まった。 固まりきってもいないカサブタの上に歯が置かれるのを見上げていると、Nは帽子のツバを深く引き、その下の目をぎゅっと強く瞑る。
ゼクロムが低いうなり声をあげると、Nは強く首を横に振る。
硬い靴の音がして、トウヤの視線がそちらへと向く。 見ると、ゲーチスが背を向けて部屋を出て行くところだった。
Nを見ると、ふるえている。
青白い指がトウヤへと向けられ、唇から歯が離される。
「…………ッ……」
「……ッ!?」
転がっているトウヤの前に立ちはだかったメブキジカを見て、Nは慌てて出しかけた手を引っ込めた。
他のポケモンも白い石で出来たアーチの向こう側から駆け寄ってきて、トウヤはポケモンたちに囲われる形となる。
ダイケンキが鳴き声をあげると、トウヤは起き上がってハンカチで自分の鼻血を拭いた。
「大丈夫、痛くないから。」
濡れたダイケンキの鼻先に触れるとトウヤはゆっくりと立ち上がり、ゴルーグが手のひらに乗せた帽子を被り直した。
「……おまたせ、N。 それじゃ、始めようか。」
何事もなかったかのようにそう言ってのけるトウヤを見て、Nは目を丸くしていた。
地下の研究セクションからモンスターボールの制御解除装置が誤作動したと報告を受けた後、ポケモンも持たずに現れ、哀れむような目でじっと見つめるトウヤにカッとなって手を上げたのが10分46秒前。
何の抵抗もなく殴られ続け、一言も発しない彼を降伏のしるしととるべきか、ポケモンを失ったショックで心が壊れたのかと判断をつけかねていたのが今。
背中越しにゲーチスがいるはずの控えの間へと視線を向けると、トウヤはポケモンたちに向けるのと同じ笑みをNへと向ける。
「なぜ……」
「ん? えっと、ほら、この城ってすごく広いし。 迷っちゃった。」
ゴメンね、と空笑いするトウヤの指先は帽子のツバに触れている。
いつもの所作で、トウヤは真新しいモンスターボールにポケモンたちを戻していく。
広い謁見室の中心に、ゼクロムとダイケンキだけが残された。
黙ったままでいるNに大きな瞳を向けると、トウヤは口元を緩ませパチンとボールホルダーを鳴らす。
「大丈夫、どこも痛くないよ。」
「……レシラム抜きで戦うつもりかい?」
「ん? んー、確かにフルメンバーに1匹足りないのは心細いけど……バトル嫌いのミルホッグや、エリザベスと仲良くしてるオタマロさんを呼び出すわけにもいかないし。」
モンスターボールに当てられた手と口元に添えられた反対側の指を見て、Nは眉を潜め、ゼクロムを前に向かわせた。
トウヤはダイケンキを前へ向かわせる。
本気だ。
「そうだ、Nたちに1つ言わなきゃいけないことがあったんだよね。」
「なにを」
「『お母さん』に口すっぱく言われてたんだった。」
「『今日はお招きいただきありがとうございます』。」
「ゼクロム、『クロスサンダー』!!」
「『まもる』!」
うぉん、と低い鳴き声をあげてダイケンキがアシガタナを振りかざすと、切先から放たれた緑色の光がゼクロムの雷撃を切り裂いた。
初めて使った技だったが、トウヤとダイケンキを避けるようにV字に焦げた床を見て、トウヤとダイケンキは目を丸くする。
「……大丈夫、いけるよ! ダイケンキ!」
「ゼクロム、もう1度……!」
「戻れ!」
驚いたようなNの表情をさえぎるように、放たれた光を覆い隠すほど大きなゴルーグが目の前で腕を組む。
焦げた空気がゴルーグの表面に黒い模様を作ったが、ダメージを受けた様子もなくゴルーグは組んだ両腕を真上へと振り上げる。
「……ッ! 戻れ、ゼクロム!!」
「ゴルーグ、『だいちのちから』!」
振り下ろされた拳が赤い絨毯をとらえた直後、ガラガラという大きな音を立ててNとトウヤの足元から大地が消えた。
冷たい空の上へと放り出されたトウヤをゴルーグの大きな手が受け止める。
崩れ行く城の音に混じって聞こえてくる羽音に視線を動かすと、古い本でしか見たことのない、鳥とも獣とも思える黄色い何かに乗ったNがこちらを睨みつけていた。
「『癖』はどうした?」
「自分も相手も分かってる行動を大事なバトルでは使わないよ。
Nこそ。 そのポケモンはどこで?」
「ウマレル前のことは、ポケモンに訊いてもわからないよ。」
そう言った直後、Nは黄色い恐竜のようなポケモンとともにゴルーグへと向かって突っ込んできた。
鋭い牙がきらめくのを見てゴルーグはトウヤを片手に乗せ替え、空いた右手で相手のポケモンを迎え撃つ。
「アーケオス、『かみくだく』!」
「ゴルーグ、『シャドーパンチ』!」
振り落とされそうな衝撃にトウヤは足場にしているゴルーグの左手へとしがみついた。
押し負けている。 トウヤくらいの子供ならひと呑みにしてしまいそうな大きな口を押さえるゴルーグの手には亀裂が入り、ただでさえ不安定な足元は上から揺さぶられてひっくり返りそうだ。
「ゴルーグ、降ろして!」
半ば叫ぶようにトウヤが指示を出した瞬間、高度を落とそうと出力を下げたゴルーグもろともトウヤは壁に叩きつけられ、割れ残っていた床の上へと転がり落ちた。
うずくまるトウヤの側に崩壊した柱の破片が突き刺さる。
半獣の鳥……アーケオスから降り立ったNは足音も響かせず、砂だらけの絨毯の上でトウヤを見つめるとその傍らにいるゴルーグへと話し掛けた。
「……キミのことは覚えているよ。」
冷たい声に石畳の上を這っていたトウヤの目が天地を見分ける。
「29日前まで、キミの主はゼクロムだった。 仕方のないことだったとはいえ、キミの主を奪ってしまったこと、本当に申し訳ないと思っている。
……そして、今も。 1度刃を向けたキミを、こうしてまた攻撃するのは本当に心が痛むけど……」
起き上がろうとするトウヤの瞳にNの白い指先が映った。
「止めを、アーケオス。 『かみくだく』。」
獣のように飛び込んできたアーケオスは、トウヤの横に積み重なった石柱ごとゴルーグのいた場所を叩き割った。
舞い上がる冷気とホコリにトウヤは両腕の袖で自分の顔を覆い隠す。
石の崩れるパラパラという音も聞こえなくなった頃、Nはアーケオスのあげるにごった鳴き声に眉を潜めた。
からっぽの空間。 モンスターボールの破片すら残っていないその場所に困惑した表情を浮かべていると、ふるえるように両腕を抱えていたトウヤの指先がすっと真上へと動いた。
「イワパレス、『がんせきほう』。」
破裂するような衝撃とともに、やかましくなり続けていたアーケオスの羽音が止まった。
かつん、と、アーケオスのモンスターボールが落ちた音が響く。
「本当はね、少しだけ……怒ってるんだ。」
見開かれたNの瞳には、瓦礫の影でおびえたように固まっているトウヤのイワパレスが映る。
「言葉ってすごく難しい。 伝えたいことはたくさんあるのに、言いたいことの100分の1も伝わらない。
分かったようなつもりになって、誤解して傷つけて、自分が嫌になるときだって…… でも……でも、これだけ1個、Nのこと解るよ。」
「キミに解るわけがないッ!!」
す、と、白い直線がトウヤの視界に伸びた。
何が起きたか分からない一瞬の後、かさっと何かの落ちる濡れ乾いた音が耳を打つ。
気絶しているイワパレスを見て、トウヤは軽く唇を噛んだ。 無意識のうちに握り締めていた拳をゆっくりと開くと、汗ばんだ手のひらでイワパレスのモンスターボールを受け取り、濁った吐息をゆっくりと吐き出す。
「わかるよ。 Nとも一緒に旅してきたんだから。」
Nは、わけがわからない、といった顔をしている。 言い換えればそれは、言葉でさえぎらずにトウヤの言葉を待っている状態であるといえる。
「同じ……ポケモントレーナーだから。」
山のように積みあがった言葉はその一言に集約された。
顔を上げると、Nは憎しみとも悲しみともつきがたい、複雑な表情をしていた。
わかることがあるとすれば、Nはプラズマ団の、自分がしていることの矛盾に気付いているということ。 わからないことがあるとすれば、それを受け入れることが出来るかいうこと。
言葉を待つ。 Nがそうしてくれたように。
もう、幾度となく噛まれたのであろう白い下唇に歯を突き立てたその姿を見つめていると、不意に変わる空気の流れとともにトウヤのボールからズルズキンが飛び出した。
「ズルズキン!?」
ズルズキンは柱の影でのたうっていた青い亀のようなポケモンを掴み上げると、それをNへと向かって放り投げた。
舌打ちが聞こえ、青いポケモンと入れ替わりにズルズキンの前に黒い巨大なポケモンが現れる。
それが何かも認識しないうちにズルズキンは『しっぺがえし』でそのポケモンを攻撃した。
ビリビリとした雷の気配とともにゼクロムの身体が青白く光る。 低い咆哮が轟くと、戸惑っていたNの視線が1点へと定まった。
「『クロスサンダー』だ、ゼクロム!」
「ズルズキン、『ドラゴンテール』!」
迫る雷撃に脱ぎ捨てた自分の皮を投げつけると、ズルズキンは自ら光の中へと飛び込み、その向こうの黒い龍に自分の尾を叩きつけた。
衝撃が宙を渡り、押しつぶされそうなほどの威圧感が一瞬にして消える。
飛び出してきた先ほどの青い亀のようなポケモンを見て図鑑を向けたくなる手を抑える。
確認する時間が惜しい。 出たとこ勝負でいこうじゃないか。
「叩きつけろズルズキン! 『とびひざげり』!」
「アバゴーラ、『たきのぼり』!」
上下にぶつかり合った衝撃でアバゴーラから発生した水流が雨のように飛び散ってくる。
力では押し負けていない。 だが、先のゼクロムからの攻撃で消耗していたズルズキンは打ち返されるとホコリだらけの床に転がった。
起き上がろうとするズルズキンに覆いかぶさると、トウヤは背中からモンスターボールを外しアバゴーラの方向へと軽く投げる。
「メブキジカ、『かたきうち』!」
「アバゴーラ『アクアジェット』!」
飛び込んできたアバゴーラを2本のツノで受け止めメブキジカが強く押し返した瞬間、散々トウヤたちを苦しめていた青いカメはあっさり崩れ落ちた。
「……特性の『がんじょう』だ。」
白い息を吐き出しながらトウヤはうなりをあげるズルズキンに話し掛ける。
「イワパレスと同じ……どれだけ強い攻撃を受けても、あのポケモンは最初の1発を耐えてしまう。
大丈夫、大丈夫。 2匹倒したよ、ゼクロムにもダメージを与えられた。 だから無理しないで、今は……休んで。」
チッという軽い舌打ちの音とともに小さなモンスターボールがトウヤの腕の下に転がる。
拾い上げて丁寧にホルダーの中へとしまうと、トウヤはひづめを鳴らすメブキジカに視線を送り、砂のついた膝を払って立ち上がった。
「……そう、確かにキミのポケモンはゼクロムに一撃を加え、アーケオスとアバゴーラを戦えない状態まで追いやった。
だが、手持ちで戦えるポケモンはボクが4、キミが3だ。 しかも、キミのゴルーグは少なくはないダメージを受けている。
戦況を分析すればこちらが有利……しかし、わからない。
この胸の内に残る不安は何なのか? キミの表情の底から感じ取れる自信はどこからやってくるのか?」
Nはポケモンを繰り出す。 時計のように規則的な音を鳴らす歯車を軋ませ、ギギギアルは銀色の身体をメブキジカへと向ける。
「……カラクサ、シッポウ、ライモン、電気石の洞穴、フキヨセ、それにリュウラセンの塔……いくつもの場所を巡って……Nの目には、このイッシュはどう映った?」
警戒するメブキジカを自分の方に引き寄せると、トウヤはそのツノとツノの間に軽く触れる。
白く硬い皮の張ったツノの先には、小さなつぼみが膨らんでいた。
まだ息は白い。 だが、壊れた壁の向こう側から注ぐすみれ色の光は、冷えきった頬にわずかな暖かさを感じさせる。
「ボクは、たくさんの人と知り合ったよ。 たくさんのポケモンとも。
友達になった人もいるよ、同じ言葉を喋ってるはずなのに話が通じない人もいたよ。
ズルズキンはいまだにスネを蹴っ飛ばしてくるし、チェレンとケンカしたり、仲直りしたり……今だって。」
一際大きな歯車の音を鳴らすと、ギギギアルはクルクルと回る速度を早めメブキジカへと突っ込んできた。
トウヤは腕の中からメブキジカを解放し、細い指先を銀色のポケモンへと向ける。
「ギギギアル、『ラスターカノン』!」
「メブキジカ、『しぜんのちから』!」
銀色に輝く光線を発射した直後、ギギギアルは下から突き上げるような衝撃に跳ね上げられくるくると宙を舞った。
その場にある自然を利用するのが『しぜんのちから』。 周りに自然物が何もない、人口の部屋の中ならばその力は床……すなわち、大地から受け取られることとなる。
しかし、倒すほどのダメージには至っていない。
もう1度細い指先が伸びると、Nの白い手が暗がりの室内の中へと伸びた。
「メブキジカ! もう1度『しぜんのちから』!」
「戻れ、ギギギアル!」
Nのモンスターボールから飛び出したポケモンが色づき始めた景色を真っ白に染め上げる。
「ッ! メブキジカ、『ウッドホーン』!」
「バイバニラ、『ふぶき』!」
覆い隠すような白の向こうから声が響くと、痛いほどの冷気が小さな空間を容赦なく叩きつけた。
張り付いた雪の一片がトウヤの肌を刺し、息も出来ないほどの風圧に両腕で顔を覆う。
風が止まり、叩くように鼓膜を揺さぶっていた風の音が聞こえなくなると、トウヤは腕の隙間からそっと目の前を確認する。
30秒も経っていないはずだ。 それだけの間にNは眼前にある世界を変えてしまった。
薄気味悪さすら感じていた暗い、壊れかけの部屋はシルクのような雪の色に染まり、まだ顔も出していない太陽の光を粉々に砕けたガラス片のように乱反射している。
寒さに耐え切れずダウンしたメブキジカがボールに収まる音を聞いて、トウヤは口元に笑みを浮かべた。
「何がおかしい?」
「だって、楽しい。」
クスクスと漏れるような笑いを口元にたたえ、トウヤは雪の中に埋もれた小さなボールを拾う。
「その子、ホドモエにいたバニプッチだよね?
あの時も強かったけど、さらに強くなったんだね。 たった1発の攻撃なのに……冷凍庫の中にいるみたいだよ。」
バイバニラ、とNに呼ばれたポケモンはアイスクリームのコーンの形をした氷の上で、2つの顔を使って照れたり笑ったりしてみせる。
「キミは、強いポケモンと出会うことが嬉しいのかい?」
「んー……ちょっと違う。 なんて言ったらいいかな?
少し待って……えーっと、強い相手っていうのは、なんていうか、思いもよらないことするってことなんだ。
それは、びっくりするほど威力の高い技だったり、想像もしないような奇策で戦う相手だったり、見たこともないような能力を持っていたり……
……そう、ボクが知らないことに、今、この瞬間出会ってるんだ。
それが、楽しいんだ。 毎日……ううん、1分1秒ごとにボクの世界に色が増えてく感じなんだ。」
「色……?」
「うん。」
トウヤはモンスターボールからダイケンキを呼び出す。
「バトルを続けようよ。 ボク、Nとバトルするの好きだよ。」
眉を上げ、少し意外そうな表情をすると薄く口元に笑みを浮かべる。
「ボクもキミと戦うことを有意義だと感じている。
世界という数式の中にいるキミという不確定要素、その数値を紐解く事が叶えばボクを悩ませ続けていたこのパズルは完成する。
それは新しいイッシュの夜明けだ。 キミにも言ったボクの夢……完成された世界が誕生する。
そのためにキミの夢をついえさせることは悲しい。 だが、世界は1つだ。 ボクとキミ、どちらか1人の夢しか叶えることは出来ないんだよ。」
「そうかな?」
首をかしげるトウヤの隣でダイケンキが眉を潜めるNを睨み、アシガタナを抜く。
笑みを浮かべるとトウヤはNの目を見て、1歩前へと進む。
「ボクはボクの夢を諦めない。 だけど、Nを悲しませることだってしたくない。
だから、両方叶えるよ。 Nの夢はNの夢だからNにしか叶えられないけど、『どっちも』は出来るよ。 ……絶対に。」
「……戯言をッ!」
急速に冷気を強めたバイバニラにダイケンキは『アクアジェット』で飛び掛かる。
振り下ろされたアシガタナは凍りついた空気を切り裂いた。
「嘘なんて言わない! 嘘だと思うなら、Nのその目で真実を確かめればいい!」
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