シンオウ地方の中央部、大都市であるヨスガシティとトバリシティのどちらから歩いて行っても2、3日ほどの距離にある小さな町、ズイタウンは少し前までは過疎化の一途をたどるあまりにも小さな集落だったらしい。
そうでなくなった理由は、ズイの町に昔からある遺跡を観光地として解放したこと、それと、シンオウ北部にある離島にトレーナー専用バトル施設、バトルフロンティアが開園したことだ。
もっとも、バトルフロンティアとこのズイタウンとの間には、直接のつながりは存在していないのだが。
「そーいや、ズイタウンに何の用事なんだ?」
乾いた草とポケモンから出てくるアレが混じりあった匂いを嗅ぎながら、パールはダイヤに尋ねる。
「カヅキから『海のタマゴ』を預かったと言っただろう?
入れ替わった直後、ヒカリの荷物を確認したんだが、そのようなものは見つからなくてな。
何か関係があるかもしれないと思ってナナカマド博士に聞いてみたら、ズイタウンにあるポケモン牧場で話を聞くように言われたんだ。」
ダイヤの指が黄緑色に塗りつぶされた紙の上を指差す。 ガイドブックのAの1番。
「って、博士がおまえのこと分かったのか?」
パールは返事から湧いた疑問を口にする。
先を行くダイヤの後を歩きながら尋ねると、ダイヤもまた何の疑問もない様子でパールの質問に答えを返す。
「俺もナナカマド博士の助手だ。 気付いてもらうのに少し時間は掛かったがな。」
「こっちのダイヤはどうしてんだよ?」
「行方不明だそうだ。 俺としては自分自身と鉢合わせる心配がなくて、ある意味ほっとしている。」
そう言って肩をすくめたダイヤにパールは眉を潜める。
「それって、自分でも生きてるか死んでるかわかんねーってことだろ? 怖くないのかよ?」
「……心配してくれるのか?」
「当たり前だろ! 別にダイヤのこと親友だとは思ってないけどさ、今は仲間なんだから。」
そうパールが答えると、横目で見ていたダイヤの唇が、開きかけてまた閉じた。
パールの耳元にそっと人差し指を触れ、彼を自分の方に引き寄せる。
胸に触れる華奢な身体に、パールの白い肌が真っ赤に染まった。
「なっ……!? ちょ、ちょっと待てダイ……」
「動くな。」
ダイヤがそう言った直後、パールのお尻のポケットをかすめて高速で動く物体が通り過ぎる。
置き去りにされた音が風となって金色の髪を叩き、足元を見るとミステリーサークルのようなV字の切れ込みが右から左へとまっすぐに引かれている。
「孵化廃人だ。 ズイタウンの名物だが、毎年事故が絶えない。
もし、当たれば命はないぞ。」
外付けされたお尻のポケットは、糸が焼き切れて半分はがれかけていた。
キス出来そうなほど近くにプラチナの顔があるというのに、ロマンチックなんてかけらほども感じない。
パールはダイヤの腕を振りほどくと、広すぎる空へと向かって腹の底から叫び声をあげた。
「なんだってんだよー!?」
薄く塗られたペンキから木目の模様が見えている扉をノックして、ダイヤは扉を開けた女性に頭を下げる。
「こんにちは。 先日、連絡差し上げた……」
「あぁ、ナナカマド博士の! 話は聞いてるよ。 さ、あがってあがって!」
カウガールな出で立ちの女性は、田舎らしい無防備さでダイヤとパールを家の中に招き入れると、丸太をくり抜いて作った椅子に座らせる。
建物の中だというのに、外で感じていたポケモン臭さは全く薄まらない。 むしろ、風がない分強く感じるくらいだ。
2人を招き入れた女性が氷の入ったグラスにコーヒーを入れる姿を見ていると、突然足元を何かが走り抜けてパールは悲鳴をあげた。
「あ、こーら、パチリス! お客さんにイタズラしちゃだめでしょ!
ゴメンねー、今、牧場でフカマルのタマゴが大発生してて、おじいちゃんとおばあちゃん、その対応に追われて手が離せない状態だから……」
「フカマルのタマゴ……?」
呆れたような顔をするダイヤの前に、女性は氷のたっぷり入ったグラスを置いた。
「うん、お客さんからポケモンを預かったり、見つかったタマゴを渡したりするのはおじいちゃんとおばあちゃんの仕事なんだ。 あたしは基本、ポケモンたちと牧場で遊んでるだけ。
あっ、自己紹介まだだったね。 私はユカリ、一応このポケモン牧場の飼育員だよ。」
「ナナカマド研究所のダイヤです。」
「パールです。」
軽く頭を下げた2人の前に、青いゼリーのようなしゃもじ状の物体が置かれる。
……いや、それは、机の下から這っていた。 目を見開いたパールの唇が、ぎゅっと固く結ばれる。
「ぽぴ」
机の下から顔が現れるのと同時にパールは椅子を転がして立ち上がった。
クーラーはきいているというのに額に汗を浮かべ、瞳孔の開ききった瞳で机の上に目を向けると、やたらと細い息を吐きながら壁に背中を預ける。
「……パール?」
「その子がフィオネだよ。 15年前に預けられたマナフィから生まれたポケモンで、今は私の友達なの。」
「ぽぴーぽ」
フィオネ、と呼ばれたポケモンはスライムのように机の上をズルズルと這って移動すると、席を立ったパールのグラスを反対側の景色が透ける手でぺちぺちと叩く。
身体の色は全体に薄水色で全身透けている。 頭の上にある浮き袋、それに、大きなヒレと足がないことからダイヤは水タイプのポケモンだろうと推理した。
ユカリはグラスをひっくり返しそうなフィオネを抱え上げ、ダイヤと対面する席に座る。
「博士の助手さんなら知っていると思うけど、フィオネはマナフィから生まれる存在でありながら、進化の方法が確認されていないの。
進化のための方法がわかっていないだけのか、メスのミツハニーだけがビークインに進化するようにポケモン自身に条件があるのか、そもそも進化なんてしない別のポケモン同士なのか……はっきりしたことは今でも分かっていない。」
「その、マナフィというポケモンは?」
ダイヤが尋ねると、白い顔をしたパールが、フラフラと戻ってきてダイヤの隣に腰掛けた。
視線を少しだけ横に向けるとフィオネを抱え直してユカリは氷の浮いたグラスの端に口をつける。
「マナフィは……」
ユカリがテーブルに置いたグラスの中で氷がカランと音を立てたとき、ドアベルをひっくり返しそうな勢いで誰かが飛び込んできてダイヤとユカリの間に割り込んだ。
驚いて顔を向けたパールの視線の先で、何かにぶつかられたドアベルが今度こそ本当にひっくり返る。
鈍い金属音を後ろに響かせながら、無数の黒いポケモンがふわふわと浮いている。
「ユカリちゃん、大変大変ッ! ここの牧場に幻のポケモンがいるってタレコミがあったの!
もう今週の特集記事はこれで決まりよッ、手伝ってくれるよね!?」
目深に帽子をかぶった女の子がバンッ!と机に手を突き、豪快にツバを飛ばす。
その後ろで、黒いポケモンたちが寄り集まり『E・M・E・R・G・E・N・C・Y』の文字を作り出していた。
「ちょっ、ちょっと…… 今、お客さん来てるから、そういう話は後で……!」
「なんでよー! あの幻のポケモンミュウなのよ! これって絶対、イップンイチビョウを争う事態でしょー!」
「幻のポケモン、ミュウ?」
目を点にして聞き返すパールの後ろで『?』の形をした黒いポケモンがふわふわと浮いていた。
細い指をピンと天井に向けて伸ばすと、飛び込んできた女の子は口を尖がらせてパールに説明する。
「すべてのポケモンの祖先って言われてるポケモンよ! 知能が高くってなんでも覚えるらしいの!
このズイタウンには古い遺跡もあるし、見つかったとしてもおかしくないわ!」
「だったら、ミュウはズイの遺跡にいるんじゃないかな……? 牧場に預けられたなんて話、私、聞いたことないもん。」
文字通り『W・A・K・U・W・A・K・U』している黒いポケモンたちを見回しながら、ユカリが気圧されたような細い声でつぶやいた。
テーブルに片手を突いたまま、女の子が「それもそうね」と納得する。
これで静かになるかとダイヤがホッとすると、なぜかパールが椅子を立ち上がり女の子に続いて外へと走り出て行く。
ぎょっとしてダイヤがパールを見ると、黒いポケモンを連れた女の子にがっちり手首をホールドされている。 そして交わった視線がダイヤに助けを求めている。
「じゃ、あたしはミュウを探しに行くから! この子借りてくねー、来週の週刊ズイ紀行楽しみにしてて!!」
「な、な、なんだってんだよー!?」
自分の身体が入れ替わるという異常事態には冷静に対処したダイヤも、年頃の女の子が放つマシンガントークを前に完全にフリーズしてしまっていた。
連れ去られるパールの「なんだってんだよー!?」がみるみるうちに遠ざかっていく。
嵐が過ぎ去って静か過ぎる部屋の中で困惑した視線をユカリの方に向けると、彼女はフィオネと一緒に首をすくめてみせた。
「なんだってんだよー!?」
薄暗い『ズイの遺跡』の中へと引きずり込まれてから、パールはやっと女の子の手を振り払っていつもの叫び声をあげた。
2人の周りに浮いている黒いポケモンは『?』と『!』でいっぱいだ。
強引に引き離された手をプラプラさせながら、女の子は目深に被った帽子のツバを眉毛の辺りまで引き寄せる。
「だって、あたしポケモン持ってないから。 ポケモンだらけのズイの遺跡に女の子ひとりとか危ないと思わない?」
「だったら他の大人でもトレーナーの友達でも連れてきゃいいだろ!? なんでオレなんだよ!?」
「だって、あなたナナカマド博士のとこのポケモントレーナーでしょ?
珍しいポケモンを捕まえたら博士だって喜ぶんじゃないの、『パール』君?」
「んなっ!?」
周囲に浮いていた黒いポケモンたちが一斉に弾けた。 パールは名前なんて教えていなかったはずだ。
女の子はしたり顔を浮かべると、ポケットから見覚えのある赤い手帳を取り出す。
「町の入り口に落ちてたよ。 バッグはちゃんと閉めておいた方がいいんじゃないかな?」
さも拾ったような口ぶりだったが、黒いポケモンが『T・H・I・E・F』の順番で浮かんでいるので彼女が何をしたのかはバレバレだった。
ポケモン図鑑をひったくり返すとパールはこれ以上この変な女の子と関わり合いにならないよう、薄暗い遺跡に背を向ける。
正午の光が目に刺さり、一瞬パールは強くまばたく。
すると、薄黒い影が体の横を通り過ぎ、反射的にパールはそれを目で追って遺跡の奥へと体を翻した。
きょとんとした女の子と視線がぶつかる。 黒いポケモンがふわふわと浮いている以外は物陰の見られない遺跡の内部に眉を潜めると、背後から伸びてきた手に肩を叩かれ、パールは「ぎゃっ」と悲鳴をあげて飛び上がった。
振り返ると、赤いハンチング帽の少年が中途半端に手を伸ばした姿勢のまま硬直していた。
「ダイヤ?」
「あ、とっ、……大丈夫か? 急にさらわれたから、追いかけるのに少し時間がかかってしまったんだが……」
ダイヤの足元で鼻をヒクヒクさせているミミロルのジャックを見ると、パールは急に力が抜けて自分の膝に手を突いた。
「なんだよ、おどかすなよー。」
「驚かすつもりはなかったんだが……
と、いうか、なんなんだ? さっきからふわふわしてるこのポケモンたちは?」
ダイヤはパールが置き去りにしたバッグを手渡すと、『U・N・K・N・O・W・N』の順番に並ぶ黒いポケモンを見渡した。
余った黒いポケモンたちがぐるりと女の子の周りを取り巻く。
「なーんか、このアンノーンたちあたしになついちゃってるみたいで、ずっとついてくるんだよねー。
邪魔はしないし、うっとおしいときは勝手にどっか消えてくれるから放っておいてるんだけどさ。」
「アンノーンって確か、ズイの遺跡に生息してんだよな?」
パールが図鑑を開くと、高い電子音とともに宙に浮くポケモンたちの姿が次々と画面に表示された。
「すっげーな、28種全部いるじゃん。 お前が見たミュウってのも、このごちゃごちゃしてるアンノーンと見間違えたんじゃねーの?」
「ちっ、違うって! あたし見たんだから、幻のポケモンミュウを……!」
「パール。」
呼ばれてパールは振り返った。 遺跡内に反響する女の子の声よりも、落ち着いたダイヤの声の方がよく通る。
「遺跡の中を探索したいんだが、ついてきてくれるか?」
「なんだってんだよー、ずいぶん急だな。」
「おっ、そっちの帽子君はミュウ探しに協力してくれるの?」
冷めた目をして女の子のことをチラリと見ると、ダイヤは視線をパールの方に向けて行動の決定権を彼に預けた。
突然話を振られて戸惑った顔をするパールは周囲に浮かぶアンノーンたちとダイヤの顔を見比べて困ったように頭の後ろをかく。
じゃあ、と、遠慮がちに肯定したパールの意見によって、3人はズイの遺跡を探検することになった。
とはいえ、とっくに調べつくされた遺跡の壁には大人の目線の高さに合わせて黒い電源ケーブルが引かれていて、数メートル置きに並べられた照明が足元まで隅々ばっちり照らしている。
時折、目の前を通り過ぎる野生のアンノーンが光を遮り、反対側の壁に不規則な影を作り出している。
「やっぱ、気のせいだったのかな……?」
「何がだ?」
パールのつぶやきにダイヤが反応したのを聞いて、先頭を歩いている女の子が首を後ろに向けた。
「さっき、ダイヤと会う前、遺跡の入り口ででっかい影とすれ違ったんだよ。
幻のポケモンかと思ったんだけど……」
「アンノーンじゃないの? 光源の近くを通り過ぎたから影が大きくなったとか。」
「そのアンノーンだが、いつごろこの遺跡で発見されたんだ?」
ダイヤが質問すると、女の子は口元に手を当てて少し考えた後に返答する。
「ずいぶん昔だと思う。 もしかしたらあたしたちが生まれるより前かも……」
「あっ、プラチナ情報! アンノーンは昔、全然姿を現さないポケモンで姿かたちもバラバラだから『未確認』って意味でアンノーンって名付けられたらしいって。」
少し眉を動かすと、ダイヤは「そうか」と言って黙ってしまった。
パールと女の子は顔を見合わせた……かと思いきや、すぐに女の子はパールから顔をそらしてしまった。
空気が気まずい。 パールがケーブルの這っていない方の壁に背中を預けると、ひんやりとした石の感触が二の腕に伝わってくる。
「そーいえばさ、アンノーンの覚える技で『めざめるパワー』ってあるじゃん?
あれって、なにが『めざめる』なんだろうな?」
「……思ってもみなかったことを口にするな。
俺は勝手にポケモンの潜在能力を引き出す技だと思っていたよ。」
「あれって実際はタイプも威力もバラバラの単発攻撃だよね。 あたしの周りにいるアンノーンたちがたまに撃ってるの見たことあるよ。」
そう言って女の子は奥に続く通路の壁に背をつける。
「本当は、封印されてる何かを『めざめさせるパワー』だったりしてね。」
「何かって何をだよ?」
パールが奥へと向かおうとすると、女の子の足が通路を横切るようにふさがった。
笑みを浮かべていたパールの頬が固くなる。
さっきから1歩も進んでいない。 顔をしかめると、パールは少し乱暴な足取りで女の子へと近寄った。
「おい、お前…… さっきから幻のポケモン探す気あんのかよ?」
「なっ! ……あっ、あるに……っ!」
「ないだろう。」
川面を跳ねる石のように言葉を遮ったダイヤの声に、女の子は眉を吊り上げて彼を睨みつける。
集まってきたアンノーンが作り出したのは『G・I・K・U・R・I』だった。
それだけでもうバレバレであったが、ダイヤは自分の図鑑を取り出しながらさらに補足する。
「最初に話していたとき、幻のポケモンの目撃はタレコミがあったと伝聞形だったのに、その後は自分が見たと主張している。」
「……もういい。」
「ユカリの意見であっさり探す場所を変えたことも不自然だし……」
「もういいってば!!」
叫び声があがるのと同時にカメラのフラッシュのような光が瞬き、ダイヤの足元が突然爆発した。
「ダイヤ!?」
吹き飛ばされて背中から倒れたダイヤにパールは駆け寄る。
小さくうめくと、ダイヤは転がり落ちた帽子を握って長い髪の上に乗せた。
「大丈夫だ、当たったわけじゃない。 それより彼女は?」
パールがハッとして顔を上げると、先ほどまでいたはずの女の子の姿が消えている。
「いないぞダイヤ!?」
「落ち着け! まずポケモンを出すんだ、さっきまで穏やかだったアンノーンの殺気が酷い。」
浮遊したまま自分たちの周りを取り巻くアンノーンに鼻をヒクヒクさせながらジャックが後ろ足で地面を蹴った。
両手で器用に長い髪を巻くと、ダイヤはそれを帽子の下に隠す。
「突っ込んでくるぞ、ジャック『とびげり』!」
飛び上がったジャックが長い耳ごと体を回転させ、黒いアンノーンの中心部に両足を叩きつける。
空気が揺れ、防御の反動に『とびげり』を押し込み切れないジャックが弾き返される。 宙に放り出され無防備な体勢のジャックにパールはモンスターボールからブイゼルのリュウを呼び出した。
「リュウ、『アクアジェット』!」
耳の先をかすめた攻撃をリュウが水の鎧をまとった体当たりで弾き返したのを見て、ジャックは「チッ」と舌打ちをした。
「打ち上げろリュウ! 『みずのはどう』!!」
リュウが体の前で集束させた水の塊が天井にぶつかり、雨となって部屋中に降り注ぐ。
遺跡の奥へと逃げて行くアンノーンたちにパールがホッと一息ついていると、帽子を被り直したダイヤがジャックを自分の方に向け、半ば無理矢理に視線を合わせさせていた。
「ジャック。 さっきの舌打ちはなんだ?
リュウはお前を助けるために動いたんだぞ。 悪態をつくことは……」
「フンッ」
「ジャック!」
話の途中にも関わらず返ってきた鼻息にダイヤは眉を吊り上げる。
「いやダイヤ、いいって。 ジャックのことだから、どーせ男だらけの空間に機嫌損ねたんだろ?」
「しかし、チームのポケモンがこのような態度では、ヒカリのトレーナーとしての今後にも影響が……!」
「マジメか!? いいからちょっとバッグ貸せよ。」
パールは背負ったままのダイヤのリュックをかき回すと、中からモンスターボールとピンク色の小箱を引っ張り出した。
ボールを開くとただよう花の香りとリュウがばら撒いた水の湿気が混じりあって、息が詰まりそうなほど空気が重くなる。
ロゼリアの『クローバー』。 彼女の姿に気付くと、ジャックは途端に背筋がピンと伸ばし、ピカピカになるほど耳元の毛を整えた。
「『あーあ、素敵なレディを助けてくれるポケモンどこかにいないかなー?』」
「みょっ!」
毛先1本に至るまで機敏に反応したジャックは、最大威力の『おんがえし』で遺跡の奥から出てきたアンノーンを蹴り飛ばした。
唖然とするダイヤの前でクローバーにプロポーズもどきを決行したジャックは、彼女の放った『どくばり』に刺されて気絶する。
不機嫌になるクローバーに、パールは小箱の中から取り出したプラチナ特製のポフィンを分け与えた。
大体ここまでで1セットだ。
「いつもこんな感じだからさー。」
「どういうことだ……?」
ダイヤが図鑑で確認したジャックの技には『おんがえし』と『やつあたり』の2つが登録されていた。
あり得ない組み合わせだ……が、パールは知っていた。 ジャックが近くにメスポケモンがいるときといないときで『なつき度』が天と地ほどに変わることを。
おかげで同じなつき進化のクローバーは進化したのに、彼はまだミミロルのままだ。
まあ、あのプラチナがミミロップに進化させるかは五分五分といったところだが。
「とにかく、あの女の子探そうぜ。 なつかれてるって言ってたけど野生のアンノーンに囲まれてちょっと心配だしさ。」
「そうだな。 まずは……」
ダイヤが口を開きかけたとき、遺跡の入り口の方から近づいてきた気配にリュウが飛び上がってパールのズボンにしがみついた。
2人が振り返ると、フィオネを両手に抱えたまま、遺跡の入り口に細いヒールで立ち尽くしているユカリの姿がある。
いつの間にか遺跡の深部へと入り込んでいたのか、薄暗い壁に反射する吐息の音が心なしか近くなった。
息が白く染まりそうな、ひんやりとした冷たい空気をアンノーンたちがかき混ぜている。
苛立ちまぎれに女の子が床を蹴ると、靴先が何かに引っかかってバランスを崩す。
尻から落ちた彼女は、床についたくぼみを指でなぞって深いため息をついた。
「……何やってんだろ。 バッカみたい。」
頭から転がり落ちた帽子を拾おうと手を伸ばしたとき、バチンと音が鳴って遺跡を照らしていた明かりが一斉に消える。
一瞬驚いた後、女の子は事態に気付き指先がサッと冷たくなった。
彼女は何も持っていない。 頼れるポケモンも、周囲を照らすライトも、帰り道を辿る知識さえも。
「あ……あ……」
喉から出かかった声を口を押さえてこらえると、アンノーンたちが巻き起こす風が強くなった。
周囲のアンノーンたちから放たれるかすかな光、それと同時に遺跡の壁が崩れる音が聞こえて女の子は口を押さえていた手で耳をふさぐ。
攻撃の気配にぎゅっと体を縮めこめるたとき、彼女の頬の横を1匹のポケモンがかすめていった。
『めざめるパワー』とは違う打撃音がして、アンノーンくらいの大きさの何かがぼとぼとと床に落ちてくる。
訳が分からず女の子が目をパチパチさせていると、不意に小さな灯りがつき、ふわりとした花の香りが鼻先をくすぐった。
「なんか、誕生日パーティーみたいだな。 ハッピーバースデーでも歌う?」
「パール君、セレナちゃんの誕生日は半年先だよ……」
腰を抜かした女の子の足元で、小さな花束のようなロゼリアと尻尾の先から光を放つパチリスがそろって彼女の顔を見上げていた。
壁を蹴った小さなポケモンが、そよ風を巻き起こしながらパチリスとロゼリアの近くに着地する。
「大丈夫だった?」
「ユカリちゃん……?」
暗がりに目が慣れ過ぎた彼女は急ぎ足でやってくるユカリの顔がパチリスの光で映されても、現実感のわかない顔をしていた。
床の上に転がった帽子を拾い上げた手が、女の子の頭の上へと伸びてくる。
「……なるほどな。 どうして俺じゃなくパールだけ連れて行ったのか気になっていたが。」
帽子の下からパチリスの明かりに照らされてキラキラと輝く金髪を見て、ダイヤが小さく声を出した。
「同じ金髪だから無下にされないと思ったんだな。
……別にそんなことしなくても、パールは人を見た目で判断するような奴じゃないんだがな。」
「ごめんなさい……」
瞳の端にうっすらと涙のたまった女の子の顔を見て、パールがビクリと身をすくませる。
ユカリの差し出した手を掴むと、女の子はゆっくりと立ち上がった。
「ママの都合で遠くに引っ越すことになって……その前に、少しでもユカリちゃんとの思い出を作っておきたかったの……
ユカリちゃん、いつもポケモンと一緒だから、幻のポケモンを見たって言えば仕事中でも付き合ってくれると思ったんだけど、やっぱりダメそうで、そしたら育て屋さんの中にパールがいて……」
「……ふっざけんなよな。」
いつになく低い声を出すパールに、ダイヤは視線を彼の方に向ける。
「オレの幼馴染にすっげー生意気で自分勝手な女がいるんだけどさ、そいつ昔、オレのことをガイジンだウチュウジンだってからかってきた奴を泥の中に突き落としたことがあるんだよ。
先生にも相手の親にも自分の親に怒られても……オレが止めても、1週間、そいつが謝るまでずーっとさ。
後で、なんでそんなことしたんだって聞いたとき、『ジュンちゃんは世界にひとりしかいないから』って言われて、こいつバカだって思ったけど、嬉しかったんだよ。
お前さ、ユカリがダメそうだからオレを選んだって……それ、誰でもよかったってことじゃねえか?
お前とユカリ、友達なんじゃねーのかよ?」
「……ッ!」
「……友達だよッ!!」
ユカリの声に驚いたパチリスが尻尾の明かりをフラッシュさせる。
「セレナちゃんは出会ったときからずっと! たとえ、遠くに離れたってずっとずっと私の友達なんだから!
パール君の方こそ、世界にたった1人しかいない私の友達のこと、いじめたら許さないから!」
ユカリの声の反響が収まると、静まり返った室内には女の子が発する小さな嗚咽だけが響いていた。
どうしたらいいか分からずに尻尾から光を放ったままオロオロしているパチリスを、細い腕が持ち上げる。
「……だったら、いつまでもこんな暗い場所にいないで、外に出て、今からでも思い出を作っておくべきじゃないか?
探検ごっこもいいが、さすがに子供だけで電気ケーブルの切れた遺跡の中を歩き回るのは危険すぎるだろう。」
薄青い光に顔を照らされたダイヤが、光のもとであるパチリスを持ち主のユカリへと渡す。
ユカリは涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られないようアゴを引くと、同じような顔をしているであろう女の子の手を引いて自分たちが入ってきた部屋の出入り口へと向かう。
その後を見失わないようにパールが追いかけた。 ジャックとクローバーをモンスターボールへと戻すと、ダイヤは部屋の入り口から漏れる金色の光に目を向ける。
「パール。」
「なに?」
金色は振り向くと、無垢で純粋な見えない視線をダイヤへと送ってきた。
「なんでもない。」
「……なんだってんだよー?」
ダイヤはパールの後を追いかける。
少しでも長く一緒にいようとする女の子たちの足取りは早い。 気を抜けば、すぐに見失ってしまいそうだ。
記憶とパチリスから放たれる光を頼りに遺跡の外へと出ると、午後の日差しが痛いほどに4人の目を刺した。
思わずダイヤと女の子は帽子のツバを引き下げ、ユカリはポケットから取り出したサングラスを、パールは手の甲でまぶたを強くこする。
視線をそらすためダイヤがポケッチに目を向けると、時刻は既に3時半を回っていた。
すっかり昼食を食べ損ねてしまっている。 パールにどう切り出すべきか考えつつ、元のまぶしい世界に視線を戻そうとすると、視界の端で、ピンク色の尻尾がくにゃりと動く。
「?」
「……あーッ!!」
隣にたたずむ女の子が大きな声をあげて、ダイヤの肩は跳ね上がった。
宙に浮かんだピンク色のポケモンが、花火の星のように小さくなって消える。
唖然としつつ、ダイヤは他の3人に目を向けた。 女の子もユカリもパールもみんな、ダイヤと同じように大きな口を開けたまま、信じられないといった顔つきでお互いの顔を見合わせている。
「いた! いたよユカリちゃん、幻のポケモン!!」
「うん、うん!」
ダイヤとパールは慌ててポケモン図鑑を引っ張り出すが、幻のポケモンは既に消えた後で、岩肌の続く道の先には高い空が広がっている。
浮き立った気持ちを抑えきれないまま、ダイヤが視線をパールの方へと戻そうとしたとき、きゃあきゃあと高い声をあげているユカリの肩に乗ったパチリスと視線があった。
なぜだろう。 あまり、驚いていないような。
何気なく、ダイヤはパチリスの視線を追って自分の反対側へと目を向ける。
古代文字の並ぶ岩肌の向こう側に、何か、見えた気がした。
ダイヤの頭の中でロジックが組み立てられる。
幻のポケモンを最初に目撃したとされる場所。 ダイヤと同じ時間に出発したにも関わらず、やけに到着が遅かったユカリ。 それに、目の前にいる2人の頬の赤みの差し方の違い。
「……まさか、な。」
不意に浮かんだバカバカしい考えを頭から消すと、ダイヤは牧場へと向かう3人の後を追って足を動かし始めた。
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