「この世界には、ポケットモンスター……縮めて『ポケモン』と呼ばれる不思議な生き物がいたるところに住んでいる!
 我々人間は、ポケモンと仲良く暮らしている。
 一緒に遊んだり、力を合わせて仕事をしたり、そして、ポケモン同士を戦わせ絆を深めていったり……
 そして、私は……」



ズン、と、大きな土煙が舞った。
よろめきながら起き上がったカイリューは赤く染まったツバを吐き出し、涼しい顔で自分を見ている青いドラゴンポケモンを睨みつける。
「く、そ……!
 カイリュー、飛べ! 向こうは空までは追ってこれないはずだ!!」
トレーナーからの指示が飛んだ。
フィールドに傷が残るほどに強く大地を蹴りつけると、指示を受けたカイリューは背中から生えた2つの翼を使って飛び上がった。
地面ははるか遠くにある、ここからなら……トレーナーとカイリューが口元を緩めた瞬間、それまで『そこ』にあったはずの対戦相手の姿が消えた。
「どうかしら?」
背後からの気配に振り向いたとき、その背中には鋭い爪が突き刺さっていた。
ギャッと悲鳴をあげ、カイリューはバランスを崩し高度を落とす。
なんとか立て直そうと見開いた瞳には、太陽と見紛うばかりの光と、その中心にいる青いドラゴンポケモンの不敵な笑いが映っていた。
「ガブリアス、『りゅうせいぐん』。」


 『か……勝ったーッ!! カイリュー戦闘不能ッ!! ガブリアス、圧倒的です!!
  ポケモンリーグ全国ブロック、チャンピオンズリーグ!
  優勝は……ッ! シンオウリーグチャンピオン、シロナ選手です!!』




『……はい、ここまでチャンピオンズリーグダイジェストをご覧頂きました。
 番組も最後になりましたが、ナナカマド博士、ここまでいかがだったでしょうか?』
『…… …… ……』
『ナ、ナナカマド博士……?』
『……世界には、ポケモントレーナー、ポケモンコーディネーター、ポケモンブリーダー、ポケモンレンジャー……ときに、名のつかない関係性を持つ人間とポケモンもいる。
 で、私はそんなポケモンたちのことを詳しく知るために研究しているのだ。
 私たちの隣には、いつだってポケモンがいる。 その意味を考えていきましょう。』
『い、以上! カントー地方からシンオウに戻ってこられたナナカマド博士のお話でした!
 というわけで、特別番組『ナナカマド博士に訊く!』 全国ネットでテレビコトブキがお送りしました。
 また来週、このチャンネルでお会いしましょう!』


雪の残る台地を駆ける風が吹いていても水面が波立たないのは、その湖面に薄い氷の天井が出来ているからだ。
空の色を映すシンジ湖の水は淡く輝きを放ち、その中心に浮かんでいる名も無き小さな島を白く照らす。
まるで鏡のような景色の傍らに、1人の老人が佇んでいた。
白いヒゲを風に遊ばせ、むっつりと難しい顔をしているのは先ほどまでテレビ画面の中にいた『ナナカマド博士』。
深く彫られた眉間のシワをさらに潜ませてじっと湖の奥を見つめると、黄色く枯れた草の上に置かれたトランクを持ち上げ、薄く煙った景色に背を向ける。
ふと、淡い景色の奥に人の影を見つけ、博士は立ち止まる。
白い眉が潜んでいた。
「あれは、アカギ……?」
薄いもやに映る人影を見て、博士がつぶやく。
もやを吹き散らした風は、陰影の中から1人の青年の姿を作り出した。
うっすらと残る雪にも似た銀髪。 色白くやせこけた頬からは、年も表情も読み取れない。
青年は落ち窪んだ瞳の奥をギラリと光らせ、口元で何かを喋った。
何を言っているのか聞き取れず、ナナカマド博士は白い眉を潜める。

「広がる空間、流れる時間……」
つぶやいた言葉が白い湖面を滑る。
フタバタウンに程近いシンオウ三名湖のひとつ、シンジ湖を前に青年はわずかばかりの表情を緩ませていた。
「全ては、『神』の作りしものと云われているが……」
短い髪を風が揺らす。
遠くから聞こえてくるテレビの音に気付くと、青年は胸元から小さな玉を取り出した。
小さな泡が割れるように青年の顔から笑みが消え、平坦で、無感動な面で湖に背を向ける。
「……全て、このアカギのものにしてやる。」
中央についたボタンを押して空へ放つと、大きな羽根と帽子のようなトサカを持った真っ黒な生物が姿を現した。
右手を掲げると、鳥はその手を掴み青年を遥か高い空へと連れて行く。



目を凝らしても見えないほどの距離まで遠ざかっていった青年から視線を外すと、ナナカマド博士は眉間にシワを寄せる。
しばらく風の音だけが響いていたが、やがて、遠くの森から野生の鳥たちが一斉に飛び立つ音が聞こえてきた。
もう、そんな時間か……と、ナナカマド博士は自分の腕時計に目を落とす。
先を急ごうと重いカバンを握りなおして町の方向へと足を向けたとき、何か柔らかいものを踏みかけ、博士は小さく悲鳴をあげた。

「ぬぉ!?」
「……う、う〜ん……」
ナナカマド博士が踏みかけたのは、彼の肩ほどの背丈しかない小さな子供。
「おい、大丈夫か!?」
「ナ……ナナカマド……はかせ……?」
「……ッ!?
 お前……コウキか?」
子供は顔を上げると、小さく「はい……」と言ってうなずいた。
よくよく目を凝らして見てみると、しなびた草のように横たわっているのは、博士の助手であるコウキだ。
その顔色は白く、げっそりとやつれて心なしか縮んだようにすら見える。
少しの間、驚きでナナカマド博士は言葉も出なかったが、すぐにそれどころではないことに気がつき彼を抱え起こした。
「何があった?」
博士が尋ねると、彼はパサパサの唇から声を絞り出す。
「数年ぶりに博士がカントーからお帰りになるというので、お迎えに上がろうと思ったのですが……」
「うむ。」
「私と博士が知り合いであることを、友人のジュンに知られてしまい……一緒に来ると……
 ……彼は、ポケモンを持っていないので危険だからと止めたのですが……それを聞き入れるような性格でもなく……」
「……うむ?」
「仕方なく……日時と場所を悟られぬよう、数日前、家を抜け出し……山間部を遠回りしてここまで来たのですが……
 不覚にも、食料を持ってくることを忘れ……町に戻ろうにも、ジュンに見つかる可能性と、博士が戻ってくる期日を考えると、それも出来ず……」
「……」
噛み砕いて言えば、「腹が減った」ということだ。
ナナカマド博士は頭の痛い顔をすると、ポケットに入っていた『いかりまんじゅう』をコウキに手渡した。
ガツガツと食うコウキの前に腰を下ろすと、ナナカマド博士は懐かしい景色に視線を移す。
「……それにしても、驚いたぞ。」
「恐縮です。 本来ならこちらから連絡を入れるべきだったのですが、事情があってそれも叶わず……」

気管にでも詰まったのか軽くむせこむコウキの肩を叩くと、ナナカマド博士は立ち上がった。
「うむ。 その詳しい事情というのは、研究所に戻ってから聞こうか。」
「あ、待って下さい、博士。」
「……まだ、何か?」
「いえ、私は問題ないのですが、あまり表通りを堂々と歩かれると……」
言いかけたコウキの額にサッと青筋が立った。
いぶかしげに白い眉を潜めるナナカマド博士の後ろから、ガサッと大きな音を立て、『何か』が唐突に飛び出してくる。
『何か』にぶつかられたナナカマド博士は、今度はコウキも巻き込んで盛大に倒れこんだ。
ぶつかってきた『何か』の方角を見ると、コウキとそう変わらない背格好の金髪の少年が倒れこんでいる。



「いったたたた……なんだってんだよー!?」
「ジュン……?」
枯れ草の上に横たわったコートから這い出たコウキが、金髪の少年を見てそう言った。
ジュンと呼ばれた少年はパチリとオレンジ色の目を瞬かせると、まだ起き上がれずにいるナナカマド博士越しにコウキのことを指差し頭のガンガンするような声量で言葉をまくし立てる。
「あー、コウキ! こんなとこにいたのかよッ!!
 ひでーぞ、一緒にナナカマド博士にポケモンをもらいに行くって約束したのによ!」
「してない!」
「お前がいなくなってフタバタウンは大騒ぎなんだかんな! アヤコおばさんなんて一晩中泣いて……」
「泣いてない! 大体、俺の家はマサゴタウンだ、しれっと嘘をつくな!」
「あれ、そうだったか?」
「そうだよ!」
重い身体を起こしてナナカマド博士が怒鳴りあっている2人の少年に目を向けると、そのうちの一方、コウキは深く息を吐いて解けかけた自分のマフラーを直した。
「……ジュンです。」
金髪にオレンジ色の瞳を持った少年はムッとしたようにコウキのことを見ると、ナナカマド博士にその瞳を向ける。

ジュンという少年は何か言いかけ、コウキの方をチラリと見るとナナカマド博士に向かってペコリと頭を下げた。
「っと、ぶつかって、スミマセンでした。」
ナナカマド博士は頭を下げたジュンという少年を観察する。
前も見ずに全力でぶつかったこともうなずけるような快活そうな顔つきと、オレンジボーダーのシャツに身を包んだ、細いが引き締まった肉体を持った少年。
年のころは11、2といったところか。 直接「そう」と聞いたわけではないが、この年頃の少年がナナカマド博士のところに訪れる理由は大体決まっている。
「ワシに用があると、コウキから聞いたが?」
少年は一瞬ひるんだように視線をそらしてコウキの方を見ると、小さな拳を握ってナナカマド博士を睨み返した。
「お、俺! ポケモンが欲しいんです!」
やはりそうだ。
「ポケモントレーナーになって、ポケモンと一緒に強くなって、世界中に名前が届くような……」
「私の記憶が確かなら、キミの家があるというフタバタウンからこのシンジ湖に来るまでの道は、高い草むらに覆われ、野生ポケモンの生息域になっていたはずだが?」
「そ、それは……」
「研究用とはいえ、私の持つポケモンは私にとって子供も同然の存在……そしてそれは野生のポケモンも同じだ。
 キミが運よく野生のポケモンに遭わずに来れたのか、それともポケモンたちを脅かして追い払いながら辿り着いたのかは知らないが、そんな無茶をするような子供に大切なポケモンを預けるわけにはいかんな。」
「ち、違うッ! 俺、草むらには入ってねーよ! ただ……」





「博士!!」

コウキが叫ぶのと同時にそれまで薄白く光っていた空がまるで夜に逆戻りしたかのように暗くなり、ナナカマド博士とジュンは同時に空の方角へと視線を向ける。
異変に気付いたポケモンたちがキィキィと声をあげ、にわかに強く吹き始めた風が足元をさらいそうな強さで湖へと流れ込んでいく。
「何が起きた!?」
「説明している暇はありません、とにかく、湖から離れて! 町の方へ!!」
口をパクパクさせているジュンの腕を強く引きながら、コウキは博士に向かって強い口調で叫ぶ。
どす黒く染まった空を背に、コウキはワタワタしているジュンの腕を引き、フタバタウンへと向かう草むらの方に走る。
「コウキ、前ッ!!」
顔の横から突き出された指先を追って視線を動かすと、町へと続く草むらの中から飛び出してきた鳥のようなポケモンにコウキは足を止めた。

「……ムックル!」
白と黒で彩られた羽根を持つ小さなポケモンに、コウキは小さく声を上げる。
他の地域ではあまり見かけられないが、このシンオウ地方では至るところで見られる小型の鳥のようなポケモンだ。
あまり戦闘を好む性格ではないが、この異変のせいか殺気立ち、こちらへと黄色いクチバシを向けている。
コウキは腰のベルトから小さな赤いボールを外して構えると、自分の足元にそれを投げ赤いポケモンを召喚した。
「ヒコザル! 『ひのこ……」
「……待てい!」
乾いた空気を切り裂くようなナナカマド博士の声に、コウキは上げかけていた腕を下ろした。
反対の手で掴んでいるジュンが、後ろの空とムックルとを見比べて慌てた声でナナカマド博士に抗議する。
「なんでだよッ!? こーゆーとき、ポケモン同士は戦わせるのが常識だろ!?」
「確かに、ポケモントレーナーがポケモンを持つのは護身のためでもある。
 しかし、ムックルは本来戦いを好まない臆病なポケモンだが、この季節は抱卵し、タマゴを守る為、縄張りに入ってくるものを容赦なく襲ってくる。
 しかもムックルは大規模な群れで生息するポケモンだ。 攻撃すれば……」
「群れ全体を敵に回し……ですか。」
呼び出した赤いポケモンが彼の方に視線を向ける。 コウキ自身も解っていた、そうは言っても時間がないのも事実だ。
だからといって、何十匹いるか分からないムックルたちを相手にする体力も、通るのにすさまじく時間のかかる山道へと回り込む余裕も自分たちにはない。
唇を噛み締めていると、不意にコウキは右腕を強く引かれた。
顔を上げると、ジュンがオレンジ色した強い視線でコウキと、ナナカマド博士とを見比べている。

「こっちだ!」
コウキの腕を握り直すと、ジュンはムックルに背を向け、黒く染まりかけている湖のふちギリギリのところを走り出した。
湖面に浮かぶ水の流れが変わり、視界の端では川へと流れ込む水がキラキラと白い光を放っている。
地面が途切れ、自分の足よりも下に広がる木々の向こう側に小さな家々でなるフタバタウンが続いているのを見て、コウキは目を見開いた。
「ジュン!」
「このガケ、鎖場になってんだ! ここ使えば草むら入らなくてもフタバタウンまで行かれるぜ!」
ガケぎわに刺さった錆びついたくさびを見て、ナナカマド博士の白い眉が少し上がった。
その視線でコウキの方を見ると、まるで自分で掘った落とし穴を見つけられたかのような複雑な顔をしている。
「……やむをえんな。」
「博士!?」
「私が先に行こう。 私の方がキミたちよりも重い、渡りきれるならばキミたちが落ちることはないだろう。
 コウキ、ヒコザルを借りるぞ。 無事に降りたらヒコザルに合図させる、それでいいな?」
渋い顔をしながら「えぇ……」と、コウキが小さく返事すると、博士は持っていたトランクをジュンに預け、錆の浮いた鎖に手をかけた。
くさびが軋み、コウキたちの瞳に映るナナカマド博士がゆっくりと小さくなる。
「来るときも、この鎖場を使ったのか?」
「な、なんだよ! 言っとくけど、この道、立ち入り禁止でもなんでもねーからな!
 俺が見つけたときには、もう鎖がかかってたんだ。 これって『入っていい』ってことだろ?」
ナナカマド博士のトランクを抱えたまま、ジュンはばつの悪そうな顔をして言い返す。
「……とにかく、ヒコザルが戻ってきたらナナカマド博士と同じように下に降りるんだ。 トランクはヒコザルが運ぶから。」
「つっても、これ、結構重いぜ? あのちっこいポケモンが運べるのか?」
「問題ない。 ヒコザルの元々の生息地は険しい岩山の上だ。 どんな断崖絶壁でも、ヒコザルなら越えて行ける。」
そう説明するコウキに、ジュンは少し面白くなさそうな視線を向けた。
ヒコザルが見守っているナナカマド博士はガケの半ばほどで足場を見失ったらしく、降りるのに少し手間取っている。
ジュンは空を見上げた。 目覚めたときには清々しいほどに晴れ上がっていた空が、今は夜へと逆戻りしたかのような暗さで自分たちのことを見下ろしている。
ふと、闇の向こうから誰かに見られたような気がしてジュンは身震いする。 それと同時に崖下を見つめていたはずのコウキの身体が音もなく消えた。

ガチャン、と、金属を打つ音が響いた。
「博士!!」
悲鳴にも似たコウキの声にジュンが視線を移すと、抜け落ちたくさびを片手に掴んだままガケの真ん中で宙ぶらりんになっているナナカマド博士の姿がジュンの目に映る。
足元ではコウキが腹ばいになって、ピンと張られた鎖と、キシキシと音を鳴らす根元のくさびにしがみついている。
「コ……!」
「手伝うな!!」
声を掛けるよりも前に怒鳴られ、ジュンは驚いて抱えていた博士のトランクを落とした。
「子供の力じゃ……ムリだ……! それよりも……!」
「んなこと言ったって!?」
反論しかけたジュンの前髪の先を熱い風が走り、上空で何かにぶつかって爆発する。
何事かと考える間もなくジュンの頭の上に駆け上がったヒコザルが、黒い空へと向かってうなり声をあげていた。
「……トラ……ンク!」
停止しかけているジュンの思考にコウキは叫び声をあげた。
ジュンが視線を移すと、取り落とした茶色いトランクはロックが外れ、大きな口を開けて中身を半分溢れさせている。
その中に3つの小さなボールが転がっているのを見て、ジュンの鼓動は高鳴った。
その名前を、ジュンは知っている。
「モンスターボール……!」
野球弾ほどの大きさをしたボールの中にコウキと同じようなポケモンが入っていることは容易に想像がついた。
「い、いいんだよな……これ?」
誰も答えられないのを承知でジュンは確認する。
空にはなぜか襲い掛かってくる黒い影、背後には今にも落ちそうなナナカマド博士とコウキ。
「……緊急事態だもんな。」
意を決するとジュンはトランクの中からモンスターボールを1つ選び、足元へと放り投げた。
中からは茶色い甲羅を背負った、ジュンの膝ほどの大きさをしたカメのようなポケモンが飛び出してくる。
頭の葉っぱをプルプルと振ると緑色のポケモンはジュンを見上げ、小さく鳴き声をあげた。
ジュンは顔がにやけそうになるのをこらえ、上空を覆っている黒い影をにらみ返した。

「っしゃ、行くぜ! ……って、あれ?」
「くぁ?」
凍りついたジュンの顔を緑色のポケモンが見上げる。
よく考えたら、ジュンは今自分の足元にいるポケモンの名前も、どんなことが出来るのかも、何も知らない。
相談しようとコウキの方を見るが、話しかけるどころか、今、彼の身体をささえているくさびさえ抜けかけていて、もういつ落ちてもおかしくない。
そうこうしている間に空を覆う影がちぎれ、鳥の形になってジュンたちの方へと突っ込んできた。
「あー、もうっ! なんでもいい、攻撃だ!!」
「な!」
ジュンが指示らしきものを出すと、緑色のポケモンは元気に返事をし、走り出していく。
「……って、」
だが、その方向は影の向かってくる『上』ではなく、まるで見当違いな『真正面』。
影はコウキのヒコザルが火を吹いてかき消したものの、ジュンが呼び出したポケモンは止める間もなく真正面の太い木にぶつかり、幹ごとそれをなぎ倒してしまった。
「な、なんだってんだよ……」
呼び出したばかりとはいえ、まるで意思疎通は図れないし、思っていた行動とてんで違うし、それにポケモンがこんなに強い力を持っていることなんて、想像もしていなかった。
当の緑色のポケモンはジュンの方へと振り返り、「これでいいの?」とばかりに首をかしげている。
すさまじい力だが、木を何本なぎ倒したところで空の上にいる謎の影には傷1つつくことはないだろう。
これじゃあどうしようもない……何か方法はないものか、ジュンがあちこち周りを見回していると、岩と金属がこすれるキィ、という音が響いて思わずジュンは背筋が凍った。
「コウキ!?」
慌てて背後を確認すると、既に彼の身体は腰の辺りまでガケ際まで引っ張られ、くさびを掴む手がじっとりと汗ばんでいる。
錆だらけのくさびはもう、くさびとしての役割を果たしていなかった。 ネジ穴も崩れ、今はもうコウキの体重だけで辛うじてバランスを取っている状態だ。
ジュンはコウキの身体を引き戻そうとするが、大人1人の体重がかかった彼の身体はジュンがいくら力を入れてもびくともしない。
むしろ、下手に動かしたらバランスを崩してそのまま転落しそうだ。
何か手はないものかとジュンがポケモンたちに目を向けると、まるで何も分かっていないかのような顔をして緑色のポケモンが、根元から折れた木の根元で小さくあくびをしていた。
軽くいらだつが、同時にジュンの頭に天啓のようなものがひらめいた。
「なぁ、サル! お前、博士のトランク持ってガケを降りられるんだよな?
 じゃあ、あの緑も持ってガケ下に降りることって出来るか?」
何を言われたのか理解できずに一瞬キョトンとしたヒコザルが、『サル』と『緑』が自分と緑色のポケモンのことを指しているのだと気付き、キッと短く鳴き声をあげる。
「やってくれ、頼む!」
ジュンが声をあげるとヒコザルは「キキッ!」と鳴き声をあげ、いまだ折れた木の横でボーっとしている緑色のポケモンを脇に抱えて持ち上げた。
それほど大きさの変わらないポケモン同士だが、ヒコザルはその重さを感じさせることもなく軽快に走ると、するすると垂直なガケを降りていく。
く、と小さな声があがり、ジュンは慌ててコウキの腰と、千切れそうな鎖を引っ張る。
コウキは何か言いたそうにしていたが、それもかなわないほど疲れが表情ににじみ出ていた。
緑色のポケモンを降ろした合図か、崖下から小さな赤い光がボッと一瞬だけ燃えて消える。
ジュンは崖下を見た。 コウキのポケモンは丁度いい位置に降ろしてくれた。 後はイチかバチかだ。
「緑ッ!! まっすぐ走って20歩! そのあと左ィ!!」
ガンガンと響く声にコウキがしかめっ面をする。
緑色のポケモンはぽかんとした顔をして上の方を見てから、ジュンの言った通りに走り出した。
真っ白な指でくさびを支えていたコウキが一瞬だけ目を開ける。 ガケ下といっても、道路として整備もされていないような場所じゃ、岩と木くらいしかない。
「アイツ……木をなぎ倒したんだ。」
小さく言ったジュンの言葉に、コウキは目を見開いた。
その瞬間、くさびにかかっていた指から力が抜け、コウキとジュンは前方へと引っ張られる。

「『たいあたり』ィ!!」
全身を冷たいものが突き抜けるのを感じながら、ジュンは力の限りに声を張った。
ズンと重い音が辺りに響き、ジュンたちの目の前で大きな木がなぎ倒されていく。
それと同時に、支えるものを失ったナナカマド博士の身体が鎖ごとガケの下へと吸い込まれていく。
「間に合えーッ!!」
根っこという強い土台を失った木はミシミシと枝を鳴らしながらガケの背へとぶつかり、まるで大きなすべりだいのような斜めのオブジェへと変化した。
直後、木がガケにぶつかったのより少し小さい音を立てて、ナナカマド博士の身体が枝葉のクッションの中へと放り込まれる。
やった、とジュンは声をあげた。 ひとまずナナカマド博士は無事だ。
だが、今度は自分たちの身体が空の上だ。 辛うじてバランスを保っていたナナカマド博士の重みもなくなり、順調……いや、最悪的に言えば5秒もない。
「ジュン、この後どーするんだ!?」
「考えてねー!」
「はあ!?」
コウキが素っ頓狂な声をあげるのと同時に、2本の足がガケの表面から離れた。
もはや墜落秒読みだ。 声も上げられずコウキは強く両目を瞑った。



「きゃううん!!」


気がつくと、コウキとジュンは枯れ草の間から芽吹いた柔らかい新芽の上で2人横たわっていた。
何が起きたか、全くわからない。
そのままガケ下に転がり落ちて奇跡的に無傷だったのか、何かに体が引っかかって衝撃をやわらげたのかさえ、自分たちでも判断つかなかった。
「おい、コウキ……俺たち、生きてるよな?
 なんで? いや、生きてるのは嬉しいけどさ、なんであの高さから落ちて傷ひとつないんだよ?」
「そんなの、こっちが聞きたい……」
見上げると、灰色の切り立ったガケの上に、ちぎれたようにぶら下がった鎖と、先ほどまで自分たちがいた鎖場の終点だったところが少し崩れた形で取り残されている。
ゆうに15メートルはあったはずだ。 ナナカマド博士のように、クッションになるものがあったわけでもない。
コウキが呆然としていると、不意に彼の鼻先に茶色い革のトランクが落ちてきた。
「……おぉ、すまんな。」
久方ぶりに聞いた気がするナナカマド博士の声に視線を動かすと、いつの間にかコウキのヒコザルがガケの上から博士のトランクを片手に降りてきていて、博士も、無事に木から下りられたのか、何事もなかったかのようにヒコザルの手からトランクを受け取っている。
帽子に手をあて、今起きている状況を整理しようとするが、今のコウキにそれは出来そうもない。
肩に乗ったヒコザルの頭をなで、手で割ったクルミを与えていると、トランクの整理を終えたナナカマド博士は立ち上がり、氷色の光を放っている空を見上げてから吐息で白いヒゲを揺らした。

「コウキ、研究所に帰るぞ。」
「……ナエトルは? よろしいんですか?」
コウキは軽く眉を上げ、パチパチと目を瞬かせているジュンの方に横目を向ける。
博士はコウキの質問に答えぬまま、外れたコートのボタンを閉めるとさっさと先に行ってしまった。
コウキは残されたジュンの顔を見る。 彼もまた呆然としているが、特にこれといったケガはなさそうだ。
「ジュン、頭や背中を打ってはいないな?」
「あぁ、マジで信じらんねーよ。 落ちたときは絶対「死んだ!」って思ってたのによー……」
「俺にも何が起きたのかは解らないが……無事だったのは何よりだ。
 俺と博士はマサゴタウンの研究所に戻るから、今日のところはフタバタウンに帰るんだ。 ここからなら戻れるだろう?」
ジュンは一瞬不満そうな顔をしたが、遠くから自分のことを見ている緑色のポケモンの顔を見て、小さくうなずいた。
「あいつ……いいんだよな?」
「それは博士の裁量次第だから……俺からはなんとも。 後で研究所に来たほうがいいだろうな。」
「じゃあ、明日! 明日絶対行くからな!
 絶対な! コウキ、お前待ってなかったら罰金100万円な!!」
「……それは約束しかねる。
 でも、わかった。 博士にそう伝えておくよ。」
そう言うとコウキはヒコザルを小さなボール……モンスターボールの中へと戻し、ナナカマド博士が向かっていった方へと歩き去っていった。
いつの間にやら、辺りはいつも通りの静けさを取り戻し、上空にあった黒い影も消えて氷色の空に白い雲がかかり始めている。
ジュンは緑色のポケモンのことを見た。
「ナエトル、か。」
確か、コウキはこのポケモンのことをそう呼んでいた。
今日から……いや、明日からはこのポケモンが自分のポケモンになるかもしれない。
「よーっしっ!! めっちゃくちゃ格好いい名前考えるぞー!!」
そう考えたら、さっきまで凍っていた顔が自分でも分かるほどににやけてきた。
ジュンはフタバタウンへと続く、木々の間の細い小道を進む。 その後を、ナエトルはのっそりとついて歩いていた。


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